J.B‘LIFE

J.Bの日々連想的なブログです

母のこと其の二 ~だから私はクリスマスにサンバのステップを踏み続ける~

 

母に会う日は気が重い

母のことは大好きだし、可愛いと思う

けれどどんよりとした感情は薄い膜のように私に付きまとって払いのけられない

 

母はアルツハイマー認知症と診断されている

2019年1月11日にグループホームに入所した

2018年12月19日に「父に殴られた」と自分で警察に電話し、保護され、私が用意していた小規模多機能施設に緊急避難した

 

「クリスマスイブには、職員に暴力を振るったと小規模多機能から連絡がきたな…県内の精神科に電話をかけまくっていたな…」

去年の今頃、環境変化に伴い、母の精神状態はめまぐるしく変わっていった

激しい状況の変化、感情の波、それは当然の反応だったのだろうが、その対応に慣れていない小規模多機能施設の職員に苛立ち、母は職員を押し倒した

暴力をするつもりではなかったと思う

でも母はしつこくされるのが嫌いなのだ

何度も話しかけられ、飲みたくないお茶を勧められたからだと思う

でも暴力をした

他害行為は日本の高齢者施設のタブーだ

「母の居場所無くなる!」

奇跡のように支援がつながっているのに、どうしたらいいかと瞬間的に考え、はじき出した私の答えは「服薬調整」しかなく、クリスマスイブに県職員の措置関係の仕事している友人に連絡を取って「今から診てもらえる病院」を探し続け、姉や兄と話し合いという名の押し付け合いをしていたのだった

 

あれから1年

今日は2019年のクリスマスイブで、母のグループホームでクリスマス会が催される

 

母は父の居る実家があるA市のグループホームにいる

A市は高齢化が進み、かつては栄えた産業も衰退し、地域全体がお金を持っていない

「綺麗な服装をしていく必要はない。着飾っても浮くだけ」

私は買ったばかりの淡いブルーのセーターを着るつもりはなかった

去年買った服数枚は、先週の台湾旅行で着て洗濯中だ

私は仕事で着る真っ黒なセーターとパンツを身に着けたが

「クリスマス会にこれはないか…」

とスモークブルーのUNIQLOのセーターとGUのグレーのパンツに履き替えた

 

母は私が来ることを自慢する

それを知っていて遅刻するわけにはいかない

 

黄色い派手なドイツ車に乗り込み、ヒップホップを鳴らす

この車だけ、母は認識できる

「黄色い車は純子の車!」とはしゃいでくれる度に私はこの車を買ってよかったと思う

 

施設からの連絡は頻回で、台湾を旅行している数日前にも施設長から長文のラインが届いていた

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12月21日

お世話になります。 腕を動かすということになると 着替えなどの際が考えられますが、 そういった際にもきちんと注意していただくよう 職員にもお話ししております。 それから、お部屋で過ごされている際など、 ご自身で着替えなどをしてしまうことなども あるとのことでした。 骨折をなされてから、 夜間帯など、トイレが間に合わずに 失禁をしてしまうことが度々起こっており、 対策を考えておりますが、 まずは腕のギブスが取れるまで、 リハビリパンツとパットなどでの対応を させていただきたいと思っております。 昨日より、施設の予備のものを利用し、 ご本人様に履いていただけるようお話をしたところ、 快く受け入れてくださったので、 少し様子を見ております。 もしこれで大丈夫そうであれば、 立替にて、リハビリパンツとパットを こちらで購入させていただき 使用させていただきたいと思っておりますが よろしいでしょうか?

 

12月23 日

お世話になります。 本日、受診をさせていただきましたが、 以前と状況は変わらずで、 少しだけ骨はずれているが 今の所はこのままで大丈夫だということです。 それで、淑子さんが、以前から履いていたズボンと ベルトをしている場合、 自分で右手も使って、ベルトは外したりつけたり してしまうことがあるため 現在は、そうしたズボンとベルトは回収し、 ゴム紐のズボンを履いていただいています。 淑子さんが持っているゴム紐のズボンは、 一つしかないので、今度いらっしゃる際にでも、 大きめのゴム紐のズボンを 何着か持ってきていただけるとありがたいです。 よろしくお願いします。

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内心はいろんな思いがある

あれだけ職員からとがめられた『ズボンへの固執』が無くなってよかったなという思い

また買っていくのはいいが、今度のズボンは履いてくれるだろうかという願い

それでも、私の返事は「了解しました。宜しくお願い致します」のみだ。

 

母は今年の12月7日に右手首を骨折した

翌日に母を見舞い、様子や精神状態を確認し、その後施設側の説明を聞いた

母は卓球(卓球台を使った本格的な卓球)をしていて、勢い余り右手をついて倒れたそうだ

母は要介護2で認知機能には問題があるが、ADLという日常生活動作は健康で、むしろ足腰は元気なくらいだ

スポーツに夢中になる負けず嫌いの母のことだ、きっと夢中になって卓球をしたのだろう

 

見舞い後、看護師資格を持つケアマネと施設長が私と夫に説明を始めた

ケアマネは事故の概要や怪我の治療内容などを丁寧に説明した

「入院すると淑子さんの混乱が予想荒れると思い、整復で処置していただきました」

との言葉に私は

「その通りだと私も思います、ありがとうございます」

と同意した

施設長は

「うちはのびのびと、ケガやリスクを恐れるのではなく、皆さんにたくさんの楽しみを提供していきたいんです。だから転倒もやむを得ない。リスクを理解していただけないなら退去していただいても~」

という内容の話を5分かけてしていた

 

ずっと黙って聞いていた私は、努めて冷静な声と内容を心掛けながら

介護保険法に「転倒させていい」という記載はありません。転倒個所によっては死にも至りますし、寝たきりになる可能性もあります。安全を確保した上での生活の楽しみや残存能力の活用を介護保険法は謳っていると解釈しています。今回の件で母が卓球を楽しんでいたことは容易に想像できますし、職員の方々のご厚意を責めるつもりは全くありません。そして母は今回の骨折も「自分で転んだ」としか言いませんし「ずっとここに居たい」と常々言っています。退去の希望はありません。それを踏まえたうえで、お金の話を相談させてください」

 

私は8年間、高齢者介護の世界にいた

高齢者デイサービスの管理者と生活相談員や、市の高齢者専門ソーシャルワーカーとして働いてきた

その実践の中で、施設管理者時代は高齢者が施設で転倒などが原因の骨折事故等をした場合、過失責任の話し合い等もしてきた

 

「私は母の限られた貯金を使って生活費を運用しています。私は専門職成年後見人としても活動していますので、家庭裁判所にチェックをうけても問題のない管理を心掛けています。純粋に母の楽しみのための拠出なら問題はありませんが、責任の所在が母以外にもある場合に一切相談せずに全額自己負担することは母の資産の健全運用の観点から問題があると私は考えます。母が長く生きるためにはお金が必要です。湯水のように使うわけにはいきません。今回の事故で、医療費・病院の付き添い代1時間1000円などかかるでしょう。施設保険が適用されれば問題ないですが、もし非該当になった場合、職員見守りの末の事故です。費用の負担等を本社の方と相談してください。しかし重ねて申し上げますが、退去の意思はありません。もし全額自己負担と言われても争うことはしないでしょう」

ケアマネはしきりに頷きながら、施設長は鳩のように目を丸くしながら私の話を聞いていた

「話は終わりましたよね?」

と私と夫は席を立った

 

これが16日前の出来事だ

 

言うべきことを言ったはずなのに、言いたくなかったとも思う

なにも言わない、感謝しか言わない家族で居たかったと思う

 

私の家から母のグループホームまでは50キロ、1時間半かかる

 

途中の量販店で母のズボンを探す

(またこだわりが出たら困るから同じものを2本買おう)

2本買ってもお金をいくら使っても、履いてくれればいい

母を実家から引き離してからずっと困っているのは『ズボンへのこだわり』だ

 

母はこの1年間、一本のジーンズのようなボロズボンしかはかなかった

これは実家に居た2018年の夏から続いていて、察するにズボンを選べなくなった頃に父と買いに行き「いいズボンだ」と珍しくしきりに褒められたのだろう

「これはいいズボンなの」

母はそう繰返し、頑としてそのズボンを履き続けた

 

(履いてくれるならいくらだって出す…)

私は母をつれてデパートに行きズボンを探しどうにか購入させたし、高いものも安いものを買った

 

SNSを通じて『同じズボンを持ってませんか?』と拡散してもらい、本社の方にも問い合わせたが、もう同じものはなかった

 

「困るんです、どうにかしてください」

8月ころから、グループホームに行く度に職員に言われた

「すみません」

と頭を下げながら、私にはどうしようもないことだった

 

黒い2980円のズボンを2本買い、私は高速道路を走った

シートヒーターを入れ、音楽の音量を上げた

日本は家族のつながりを大事にするし、家族を神聖化する国だ

(どうして私ばかりが…)

母は私が10代の頃、事故で入院しても退院時しか来なかった

父が生死を彷徨った時も、病院に通い世話をしたのは幼い子を連れた私だった

(抱える必要があるのかな…)

 

私が市役所で高齢福祉課にいた時、様々な困難な家族のケースが舞い込んでいた

地域包括支援センターで対応できないようなケースが、私達チームのケースになる

遺産相続の泥沼からの介護放棄、そもそも両親が子供に虐待を繰り返し絶縁している中での親側の医療判断・介護など、どの家族も壮絶で悲惨だった

「もう娘さんに頼るしか…」

歳老いた両親にも明らかに問題があり、教育も受けなれなかったと思われる家族の中に、不思議と医療・福祉領域で働く専門職の子どもがいることが多かった

子供全員がではなく、兄弟姉妹の一人にそういう人がいるのだ

 

彼らは自力で家族を脱出し、資格をとり、遠くで自活しているのが常だった

私達が連絡を取ると、不機嫌そうな困った声を出しながら、必要な手続きをしてくれる

「お金なら出します」

と言ってくれる、もしくはそれ以上の対応をしてくれるのが彼らだった

私達は『抱える子』と呼んでいた

 

「申し訳ないなと思うのよ。だってたぶん相当苦労してきたでしょう?頑張って家をはなれて、自分で学費稼いで勉強して、家族作って。連絡取りたくない気持ちも分かる。だけど他に出来る家族がいないから、私達も頼っちゃうのよね」

チームの先輩保健師の言葉が頭をよぎる

「ほんとですよね~」

軽く聞き流しているふりをしながら、いつも願っていた

(私は『抱える子』になりませんように)

ところがこのざまだ

父や兄や世間からは冷酷な人間と思われ、自分の時間やお金を使い、誰にも感謝されず、へとへとになるだけなのに

 

結局わたしはあの家を『抱える子』になった

 

母のことは好きだと思う

それは間違いないと思っていた 

母に会いたいのに、A市に向かうだけで気が重い

(行きたくないのはグループホームだ。『母はグループホームで幸せに暮らしました。おしまい』そう言えたらどんなに楽だろう)

 

グループホームを移った方がいいのか、それも何度も自問した

しかし、グループホームは地域密着型施設だ

母の住所地はA市だから、A市以外のグループホームには入所できない

また、要介護2で特別養護老人ホームには入所申し込みもできない

母の資産から考えて、有料老人ホームやサービス付き高齢者住宅では費用が賄えない

また、DVからの保護の点から考えても、ケースを把握しているA市やA警察署の管轄にいた方がいい

それに、私が見てきた施設では、いまのグループホームが最低とは言えないのだ

職員は殆んどが無資格者や高齢者や外国人だ

しかし頑張ろうとしている

職員の人数が足りている

この2点だけで、この国では中の上の施設に入ると思う

 

私はさらに音量をあげて、車を走らせた

 

1番怖いのは世間から「母と一緒に暮らせ」と言われることだ

私は20歳で実家を出た

私はあの家族とは縁を切ったはずなのだ

私は自力で今の仕事も家族も、この黄色い車も手に入れたのだ

(私はこれ以上何かを抱えたらこわれてしまう…、私は相談者にそれを勧めないし、自分が大切だ)

 

グループホームには時間通りに到着した

夏祭りの時には近所の公民館の駐車場を借りており、施設長の80歳くらいの父親が鉛筆で書いた手書きの地図を、炎天下の中配っていた

 

しかし今日は車が3台のみ

グループホーム玄関前は駐車スペースが余っていた

(家族はほとんど来てないみたいだな)

 

私が挨拶をしながらグループホームの玄関を開けると、白塗りの顔にビニール製の鬘をかぶり安そうな着物に浴衣のつけ帯をした人、幼稚園児服に鼻水のテープを付けた施設長、熊の全身衣装の人、ツリーの衣装に電飾を付けた職員がいた

 

私がサッと通り過ぎ、30畳ほどの多目的室に行くと、室内の床一杯にティッシュの空き箱が並べられ、利用者は壁に張り付くように座っていた

利用者は全員、セーラー服や幼稚園児の格好、天使の輪をつけた女装、全身赤い縞のウォーリーなどの仮装をしていた

数名の家族もエルビスプレスリーや、学生服を着せられていた

 

その一番端に母はいた

母はビニール製の鬘を手に持ち、会場の中で一人だけ仮装をしていなかった

私がゆっくり近寄っていくと母は次第に表情を和らげながら

「純子?」

と私の名前を呼んだ

「そうだよ、お母さん」

「来たのね、よく分かったね」

「分かるよ、お母さん」

 

去年の私は、1年後に母に名前を呼んでもらえるとは思っていなかった

驚くスピードで母の記憶は失われて続けていた

しかしこの半年、母の記憶は一定のところで安定しているように思える

 

「トイレにね、行きたいの」

「そうなの?じゃ、いこうか?」

私が最初に取った資格は介護福祉士

鬘をテーブルに置き、母の背中からそっと手を添え、私と母はゆっくりトイレに向かうと

「あー!動かないで!」

という職員の声が聞こえた

ドミノが倒れるのを心配しているのだろう

私は声を無視して母をトイレに連れて行った

左手でしっかり立位させ、リハビリパンツを下ろした

「よく来たわね。今日は演奏会なのよ。早く戻らなきゃね」

母は難なく私の指示に従いながら、朗らかにそう言った

 

会場に戻るとティッシュ箱ドミノ倒しは終わっていた

会場の職員は私のことを不安そうにチラチラ見ていたが、しばらくするとツリーになっているケアマネがやってきて

「今日はありがとうございます。淑子さん、どうしても衣装を着て下さらなくて、再三誘っているんですけれど…着ましょうよ?」

「私は着ません」

母は左の掌をストップのポーズにしながら、静かにNOと言った

「じゃあ、む、娘さんはいかが~」

「けっこうです」

会場内で、母と私だけが普通の格好をしていた

 

その後、全員で『きよしこの夜』を歌った

母はひどい音痴で、歌の上手い父によく虐められていたが、今日の母は大きな外れた音で楽しそうに歌っていた

(私が子供の頃のクリスマスは…毎回父親がコタツテーブルをひっくり返して…ぐっちゃぐちゃになって、最悪だったな。お母さんの讃美歌聴くのは初めてだ…)

母の歌声を聞いているうちに涙が出てきた私は、泣いているのを見られまいと必死にハンカチで拭った

 

歌の後は、

○叩いて被ってジャンケンポン

○二組に分かれ競争

○負けた方が小麦粉に顔を突っ込みチョコ食べる罰ゲーム

○スタッフによるマジックショー

○プレゼント交換○オヤツタイム

ダンシングヒーローマツケンサンバを全員が謳って踊る、という会が2時間半続いた

 

母は30分おきに

「トイレにいきたい」

といい、私は母をトイレに連れて行った

トイレで母はパットを汚すこともなく丁寧に動き、用を足せば

「皆さんのところに戻りましょ!」

と言った

 

会場に帰れば、新聞の棒で頭をたたき合うゲームをに誘われ、そのたびに母は丁寧な所作で

「出来ません」

「嫌です」

と言い続けていた

(この地域は方言が強いのに、住んで50年たっても訛らず、むしろ今日の言葉はこの中で一番綺麗な日本語を話している)

私と母は、二人だけ異邦人のように見えたが、母は堂々としているのに対し、私は居心地が悪くて表情を硬くしていた

 

2度目のトイレを利用して、私は母に新しいズボンをはかせた

「ああ嬉しい!ありがとう」

と母は以前のこだわりを忘れたかのように、新しいズボンを受け入れた

 

会場では罰ゲームの『小麦粉に顔を突っ込む』が行われていた

母は誘われても毅然と断っていたが、セーラー服を着た女性利用者は、職員の真似をするように

「いきまーす!!!」

とおどけながら、小麦粉に顔を突っ込んで会場の笑いを誘っていた

「私の娘なんです」

母はそれを心配そうに見つめながらも笑うでもなく、隣のみつあみ幼稚園児の格好をさせられているハンサムな利用者の男性には10回以上、私を紹介した

「もう聞きましたよ。いつも隣で食事しているんですよ」

職員より丁寧に母の話を聞いた利用者の男性は、私にもゆっくり同じ挨拶をくり返した

 

母の施設内の友達は2名の男性利用者のみで、女性の友達は居ない様子だった

(誰よりも近所の奥さん連中に合わせるのを大事にして、必死に友人付き合いして、お道化ていた人なのにな。昔の母だったら、率先して小麦粉に顔を付けただろう、昔の母だったら)

私は母の涼しげな横顔を横眼で眺めていた

 

1時半から始まったクリスマス会が3時になる頃には、利用者に疲労の色が見え始めていたが、職員のテンションは上がるばかりだった

(夏祭りは10時から4時までやったもんな…これでも短くなったのか…)

しかし、夏祭りには18人の利用者の殆んどの家族が参加していたが、今日は4人しか家族はいない

 

夏祭りの頃から、このグループホームは変わった

 

7月までは、今の施設長の甥が施設長だった

 

元々は神奈川にある専門学校が母体となり、神奈川にグループホームを作ったのが始まりらしい

とても理念とケアが素晴らしいその施設で、福祉大学をでた元施設長は経営に関わりながらケアをしていて、そこに50代の現施設長が介護職員として就職し、昨年ケアマネ―ジャーの資格を取得したため、自分の両親(元施設長の祖父母)が住むA市にグループホームを計画した

神奈川の専門学校グループが本社となっているので、土地と資金を用意しフランチャイズのような経営をしているのだと思う

経営が軌道にのる7月までは40代の甥の施設長が管理運営をしており、その頃までは若い職員もいたし、慰問も外国の民族楽器や子供のヒップホップダンスなどが品よく頻繁に1時間程度行われていたのだ

 

施設長が交代した8月から、「今日中に夏用掛け布団を買ってきてください」という無茶な呼び出しや、「精神科の薬を止める」というラインが来るようになった

何が起こっている分からない私は(記録をチェックし、どんな問題行動があるか主治医に報告と相談をします)と返すと、

「同じ事を何度もいう、他の利用者に嫌われてる、ご飯の時間を何度も尋ねた」という内容を複数の職員が手書きで書いたメモを渡された

施設長は把握してない様子だった

(預かってもらっているんだから…)

と黙っていた私も、8月末の夏祭りの後、施設長あてにメールを出した

 

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グループホーム ○○○○

施設長     ○○○○様

ケアマネージャー○○○○様

                                  令和元年8月26日

                                 利用者淑子の二女 ○○純子

 

  日々の御礼と淑子の介護に対しての相談について  

 

前略 いつも母:淑子が大変お世話になっております。母はグループホーム○○○○を利用した当初から「ずっとここにいたい」と繰り返し私や姉に話しており、皆様の介護がいかに丁寧で親身なものであるか、日々感謝しております。いつもありがとうございます。

本日文書にてお伝えしたいのは

①8月13日にラインにて処方薬服用中止等のご相談があった際のやりとりに気になる点が数点あった事

②問題を是非共有し、適切な介護を行い、母の幸せにつなげたい

ということです。

 

①-1【服用中止の判断について】

・今後とも医師の判断に基づいた服薬管理をお願いします。

・服薬で抑えられる認知症状には限度があります。

現在私は自分の相談事務所にてカウンセリング・家族相談等を、○○○○センターで一般精神相談を行っております。

また、年間15回程度行政主催の講演会等で講話を行っております。

医師以外の者が自己判断で服薬中止することは非常に危険な行為だと繰り返し伝えている立場になります。今後も処方に疑問があれば病院受診をお願いいたします。

 

①-2【病状のメモについて】

・私は施設長とのラインで、介護記録から抜粋した『何月何日、毎回何時頃にこういう訴え×何回』というような具体的で頻度が分かるものを指したつもりでしたが、具体性に欠ける感情的なメモを家族の私に職員さんが説明なく渡されたことに対し、非常に遺憾に感じました。母を退所させろという意味かと思いました。

❶同じ話の繰り返し⇒傾聴、ページング、一定の関わり(介護技術)

❷執着が取れない ⇒傾聴、ページング、一定の関わり(介護技術)

❸歌を止めさせようと声をかけるまで止めない⇒止めて静止するなら声掛け

❹他の人がしたことを自分でやらないと気が済まない⇒歯磨き等は数回させて問題なし、髪の毛は家族に問題共有し、施設で切る様にする

などの対応策があるかと思います。

しかし、一挙に母の拘りや執着が手放されるわけではなく、安全で安定した関わりの中で、次第に緩やかになるものと予想されます。(病院にメモを持参された事については施設判断裁量内だと考えております)

 

【 要 望 】

〇母の居室にもネームプレートを張って下さい

〇職員のお名前が分かりません。廊下に写真と名前を張る等していただきたいです

〇母の病状で心配な点や苦慮している点があればケア会議等を開いてください

〇家族に協力できることは具体的にご指示ください

 

私側からの一方的な意見になってしまったことをお許しください。

母は父からの暴力や怒声に怯える暮らしをしてきて、今が一番幸せだと思います。

私も、厳しい暮らしをしてきた母に対し、人生の最後は安全で安心した場所で優しい方々に囲まれた現在の暮らしを続けてほしい、家族として母に対し最善を尽くしたいと考えています。そして私としては、グループホームと相談をさせていただきながら、末永くお世話になりたいと願っております。

今回の文書での要望もクレーム等の意図はなく、今後のより良い母の生活につながるようにと願っての問題共有の一翼となればという思いでお伝えすることを決意しました。

また、夏祭り後、ケアマネージャーさまと帰り際にお話しさせていただきました。優し対応に胸がつまりました。誠にありがとうございました。その中で話題に出たことです。

〇本人が拘るズボンについてはSNS等で呼びかけ数千人の方に探していただきました。

その流れで販売元本社にもご対応いただきましたが、販売停止している状況でした。

身体に影響がない限り、母の拘り=精神の安定を優先してください。

〇パジャマについては再度販売していないか確認して参ります

私の勤務上、水曜日なら比較的日程調整がしやすい状況です。認知症対応型生活介護サービス計画書の変更が必要な際は、家族として参加いたしますので、ぜひ今後ともどうぞよろしくお願い致します。

草々

 

夏祭りの感想

 

昨日はお疲れさまでした。

職員の皆様の熱気と情熱が伝わってくる素晴らしい夏祭りに参加させていただきました。

ありがとうございました。

 

【 意 見 】

時間が長すぎるように感じた。利用者にも疲労の色が見えていた。

10時から昼食までが体力の限界ではないか?

〇行事に熱心なあまり、多目的室に介護職員が0人になる場面が多かった。または、職員がいても走り回っており、名前も分からず声をかけられなかった。家族が来ている利用者は家族が対応していたが、家族が来ていない利用者の対応も他利用者の家族が担っていた。転倒や急変の恐れもあるため、行事担当以外に、フロアで健康管理や見守りに専念するスタッフの必要性があると感じた。

 

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3時を回ると母は

「もうすぐ終わりますか?」

と通りかかる職員に問いかけ

「もう少し」

と言われていた

職員はみな汗をかき、一生懸命騒いでいた

(今日も夏祭りと基本的には何も変わっていない。狂乱が楽しいことだと思っているんだな)

母は焦るでもなく怒るでもなく、それらを眺めていた

施設長がガッチャマンの衣装に着替え、カラオケにあわせスライディングしたり、側転のしそこないをして、笑っているのは職員だけになったころ、やっと最後の出し物になった

 

カラオケからは荻野目洋子の「ダンシングヒーロー」が流れ、職員が盆踊りのような踊りをはじめ、利用者にも手をつないで踊るように促し、徐々に踊り始めた

母は「踊りません」と断っていたが「トイレ」と私に言い、私が連れていこうとすると、ケアマネが走って来て

「今度は私が連れていきます!」

と必死の形相で言った

 

私が1人になり昭和の宴会のような会場を見渡しぼうっとしていると、最年長の薄毛の職員に無言で手を強く引っ張られ、利用者と手をつながされた

仕方なく私はお遊戯のように前後に手を揺らしながら、

(母ならちゃんと断ったのに!私に踊れというなら踊る!なんだよこの田舎の宴会は!)

と私は苛立ちが隠せず、かといって利用者の手を離すことも出来ずにそこにいた

 

ダンシングヒーローが終わると、母も帰ってきた

私はどこかほっとしながら、母と一緒に会場の隅でマツケンサンバを見ていた

 

パンダの白塗りをした職員がやって来て母に

「踊りましょうよ!」

と誘うと、母は薄く微笑みながら

「私は踊りません」

と断り、それでも執拗に誘われると

「では、私の代わりに○○純子が踊ります」

と答えた

私は驚きながらスリッパを脱ぎ、何の疑いも抱かずその場でサンバのステップを踏んだ

 

私はここ数年ダンスを習っていたし、身体も鍛えている

その身体を使って全身でリズムを刻むと、母は満開の笑顔で私を拍手した

「靴がないと難しいね」

私は言い訳をつぶやきながらサンバを踊った

 

会場の隅で踊る私の周りに、いつしかカメラを持つ数人が囲み写真を撮り始めた

しかし恥ずかしくはなかった

 

ずっとこのままで、凛とした毅然とした美しい女性でいてほしい、ただそう思うながら、まっとうなサンバを鍛えた身体で踊った

 

私は母のために踊っていた

この女王のように美しい女性のために、私は憎まれるヒールにもなるし、下僕にもなる

昔の母じゃない

認知症の、このきぜんとした女性の為にだ

 

たぶん、母の顔色がよくなったのはこのグループホームのおかげだ

母は実家からは若い時も認知症になってからも逃げだしていたが、この施設からは逃げ出していない

「ずっとここにいたい」と言う

やっと母が見つけた居場所なんだろう

 

一年前に比べたら、小さな不満や愚痴だ

母は暴力に晒されず、自分の意見を言うことが出来ている

母は病院に連れて行ってもらい、治療を受けられる

母を怒鳴る人はいない

母の顔色は良くなり、清潔も保たれ、母は「皆さん」のもとへ行きたいという

 

もちろん完璧じゃない

専門的な力量もまだまだだ

だけどこんなふうに小競り合いをしながら、少しづつ母のことや介護や認知症について、分かってくれたらいいなと思う

 

私は意見を言うだろう

私は施設管理者に煙たがられ、施設に行くたびに罪悪感から気が重くなるだろう

 

でも、私はやっと母が好きになった

認知症になった母が、一人の女性としてカッコイイと思えるから

もう少し生きてほしい

だから私は言うべきことは言う

施設側の、管理者にだけ言う

そのためなら悪役でも踊り子でも何でもする

 

母が喜ぶから私はやるしかなくて、気が付けばどんどん強くなる

母が言いたいことを言いながら生きられることが、私への報酬なのだろうから

 

だから私はクリスマスにサンバのステップを踏み続けることになる

 

それをもしかしたら喜びと呼ぶのだろうか?

 

そんなことを思いながら、私が手をひらひらと旋回させてると、母は童女のように微笑みながら、同じように手をくるくると回してみせた