J.B‘LIFE

J.Bの日々連想的なブログです

思い出したくないけれど忘れられない日のこと ~東日本大震災の日~

子供の声がしない

私は自宅2階の小さな図書室でマスクを縫いながら、小窓から校舎を見る

人気のない学校、張り出された廊下の書道、鳴らないチャイム

 

思い出しそうな光景を、私は脳裏から追い払う

「これでマスクを縫うのは終わりにしよう」

そう思いつつ、2月から始まったマスクを縫う行為は3月になった今も続いている

 

こんなにマスクを縫うなんて予想しなかった

ほんの小さな楽しみのつもりで始めたマスク作り

近所の手芸店が2月から会員には65パーセントオフセールを始めた

私はいつもならネットの激安店「布んちゅ」か「トマト館」で10メートル単位でダブルガーゼの布を買っているから、地元の手芸店は利用しないのだが、ちょっとしたマスクを縫うにはちょうどいい価格設定だった

「手持ちの端切れの布も使えるからいいかも」

そんな気軽な気持ちで、小学校を眺めながら、暇さえあれば私はマスクを縫っていた

 

私の家の前は小学校がある

10年前、結婚と同時に住み始めた家だ

家の周りは三方道路に囲まれていて、後方に一軒家がある

南側には小学校

いつも賑やかで、昼間は子供の声が響いていて

 

今はとても静かで、この静けさは押し込めた記憶を呼び覚ます

その記憶は私が怯えるものであり、今後整理するつもりもないものだ

 

忘れたい、でも一生忘れられない光景

 

それなのに、一日一日と記憶が私をノックする回数が増えていく

 

2月上旬には私は近所の手芸店で格安のダブルガーゼを漁っていた

2月中旬になるとマスクゴムが手芸店からも100円ショップからも消えた

2月下旬には近所の手芸店から無地のガーゼ生地が無くなった

3月頭にはネットでも無地のガーゼ生地は買えなくなった

そして昨日、近所の手芸店にはダブルガーゼ生地がなかった

 

私はテレビをほとんど見ないが、私の周りからガーゼ生地が無くなるたびにコロナウイルスが私の世界を侵食していくのを感じた

マスクゴムが買えなくなるまでは予想していた

無地の生地が人気が出ることも予想していて、先手先手で必要な物品を買い進めていた

でもガーゼが無くなるなんて、思いもよらなかった

 

もう、楽しい気分でマスクを縫うことはない

「どこまでいくのだろう」

私の予想を超えて、世界は混乱していく

 

小学校から音が消えることはもうないと思っていたのに

小学校から子供の姿が無くなることは、9年前だけでたくさんだったのに

 

「ああ、あれも3月だったんだな…」

 

私は9年前の3月を静かに思い出す

 

9年前の2011年3月11日、私は家から車で5分ほどの距離にある市役所にいた

当時の私は結婚を機にハードな管理職を辞し、市役所の障害福祉課の嘱託職員として働いていた

週に4日、自分で好きにスケジュール調整していい仕事はとてもやりがいがあって面白かったし、時間も好きに使えた

 

その日は2時間有給をとって歯医者でホワイトニングをする予定だった

「あと30分仕事をすればいい」

古い市役所の1階で片付けやすい事務仕事をしているときだった

 

軽く揺れた

誰も何も言わなかった

そしてまた揺れた

新卒の南くんがパソコンにかぶさるような体制を取ったのが見えた

そしてまた、長い長い揺れが来た

「つくえのした!!」

木野崎係長の声がしたのを合図に、障害福祉課のみんなは各自机の下に入ったが、おっちょこちょいで長身の南くんはそのままパソコンを抱えていた

 

1分、2分……

揺れは治まらず、私は机からはい出し自分のパソコンを抱えた

船に乗ってるような大きな横揺れが続いていた

 

脇を見ると木野崎係長もパソコンを押さえていて、泣きだした女性職員の分のパソコンも押さえていた

(そのうち治まるだろう、静かに待てばいいだけだ)

私もつられて周りのパソコンを押さえた

 

揺れは治まらず、どんどん大きくなっていった

市役所の女性職員の半数は泣きだし、なかにはヒステリックに叫びだす人もいた

「大丈夫だから!だいじょうぶ!」

保健師の木野崎係長はパソコンを押さえながら女性職員をなだめだし、私は立ち上がったまま(もうパソコンは無理だ)とやっと気が付いた

 

市役所の1階正面入り口の巨大なガラス壁面が割れた

「キャーーーー!」

南くんはロビーですくむ高齢者に駆け寄っていた

若い男性職員が南くんと一緒に高齢者を囲んでいた

ほとんどの女性は泣き叫び、腰を抜かし動けない人もいた

 

会話ができるレベルの職員は稀で、私と木野崎係長は立ち上がり周囲を見渡していた

一枚が割れると、立て続けにガラス壁面はリズミカルにどんどん割れた

「外に!外に避難しましょう!」

フロアに木野崎係長が飛び出し、指揮をとりだした

他の部署の3名の職員が木野崎係長に続くように

「外へ!そと!」

と大きな声で誘導し、泣いている女性職員や市民を外広場へ連れて逃げる

その間にもガラスは飛び散り、地面は大きく揺れていた

 

外に出ると、揺れは小さくなったようにも思えたが、中庭の銅像がぐにゃりぐにゃりと揺れていた

1階のガラスは割れつくしたようだったが、綿煙のような粉が庁舎内に舞い散り始めていた

外へ出て少しホッとしたせいか、泣いたりわめいたりする人の姿は見られなくなった

中堅男性職員たちが輪になって煙草を吸い始めた

「タバコは止めてください!非常時ですよ!」

いつもは温和な木野崎係長は指揮を取ったり注意をすることで自分を保っているようだった

 

よく見れば中広場には市民の方もいて、市民課の50代の女性係長が

「今日は届け出は受理できそうになく~~」

と若い男女に説明を繰り返していた

 

地震発生から20分経っても、揺れは治まることはなかった

 

木野崎係長が中心となって

「女性職員と嘱託職員は帰りなさい!」

という声が響き始めた

 

市役所の鉄塔が大きく揺れていた

3階の市長室から市長が下を覗いていた

「おい、誰か市長を外にだせ」

「言ったんですけど出ないんですよ」

「あぶねーぞ、建物崩壊すんぞ」

 

地震発生から30分後、これは普通の地震ではないという事は分かった

怖かった

6階部分まで伸びていた、鉄塔がゆっくりと円を描きながら倒れた

キャー―――!!

悲鳴が響いた

「みんなを帰らせるんですね?」

「城之内さんも帰りなさい、もういいから!」

「でも荷物が!みんなの荷物!」

その場にいた数名の障害福祉課職員と私は顔を見合わせて黙った

女子更衣室は古くて、建物の一番奥にある

「無理だから!」

木野崎係長は止めたが

「行きます!私がみんなの分を取ってきます」

と私がいうと、佐藤保健師

「一緒に行く」

と言った

 

中に入った記憶はないが、古いロッカーをこじ開けて持てるだけの荷物を取った場面は覚えている

うっすらと灰色の景色の中を走り込んで、ロッカーを開けて、

「佐藤さん!佐藤さん!」

と言いながらまた飛び出した

 

40分経った頃だろうか?

いくら注意されても煙草を吸う人たちは止めず、市長は大きく揺れ続ける庁舎の窓から中庭を見ていた

少し揺れにも慣れ始めたころ

(ホワイトニングは行けないな…)

(帰ろう…、帰っていいなら帰ろう)

そう思った

 

「結婚届け、今日の日付で受理できそうです!」

遠くから市民課女性係長の声がした

受理印を取ってきたという話声が聞こえた

(みんな落ち着いてるようでもおかしくなってる)

私は木野崎係長に「帰ります」と告げ、駐車場に向かった

 

揺れは治まりつつあるように思えたが、目の前で道路が割れていく

 

民家のブロックがゆっくりのドミノ倒しのように倒れていく

 

電信柱は粘土のようにぐにゃぐにゃだ

 

(地面って割れるんだな)

 

信号は点滅をしたまま、ピカピカと揺れながら、折れ曲がりそうに揺れ続け…

 

(世界が終わるんだな)

 

私は新約聖書の様々な場面を、教会学校で習ったノアの箱舟を、モーゼの十戒を思い出していた

 

(私は箱舟に乗れなかったんだな)

 

いつもは2分で行きつく駐車場についたのは15分後だった

道が、まともに歩ける道ではなかったからだ

 

日常が音をたてて崩壊していくあの風景は、音のない世界と共に私に刻み込まれた

 

あの日から、どれくらい小学校は静かだっただろうか?

 

水は3週間止まったから、昼間は市役所で働き、夜は小学校のプールからバケツでトイレ用の水を運んだ

最初の3日間は深夜に小学校の外水道の水を汲んだ

飲み水にした

昼間給水車に並べない分、許してくれと思っていた

 

電気は4日間で復旧したけれど、とてつもなく長く感じた

 

食事を買えるようになったのはいつくらいからだろうか?

 

昼間は市役所で支援物資を仕分ける作業を担当していた

自分は空腹で、私の子ども達も空腹で親がいない家で留守番をしている中で大量の食べ物を福祉施設30数か所分に公平に分けていると、通りかかるエラそうなおじさんが食べ物をひょいと持ち上げる

私がにらみつけても素知らぬ顔で持って行った

赤ん坊を抱えた若いお母さんが「水とオムツをください」とやって来ても、私の一存であげることは出来なかった

 

沢山の避難所があった

みんな空腹だった

だれも十分な水がなかった

船酔いのような揺れがいつまでも続いていた

 

日常がいつ戻ったのか、私には判然としない

 

確かに世界は一度終わった

地震の恐怖はこの先数か月続いたけれど、もっと辛かったのは人間が引き起こした事柄の数々だったけれど

目の前で世界が崩れていくのを私は見た

人の心が崩壊しているさまも見た

 

私は東日本大震災のニュースは見ないし、映像も見られない

もっとひどい被害があった地域があることも知ってる

でも痛みは比べるものじゃないから、私は私を守り続けた

 

でもいつしか何気ない普段の生活に戻り、いま私は小学校を眺めながらマスクを縫う

 

もう楽しい気分はない

はやくこの混沌とした世界が収まって欲しいと切に願う

 

でも必ずおさまるから、叫ばず、騒がず、信用できる人に弱音を吐きながら、やり過ごしてほしいと切に願う

 

お願いだから