J.B‘LIFE

J.Bの日々連想的なブログです

母のこと

私の母は認知症を患い、現在はグループホームで暮らしている

 

時折私は元気だったころの母を思い出そうと試みる

 

すると脳裏に現れるのは「洗濯機の前で背中を丸めている母」だ

駐車場の隅に置かれた洗濯機の前で母はバケツに水を貯め何かを洗っている

 

一度でも袖を通した衣類は必ず洗う人だった

兄や父のトランクスやブリーフにもアイロンをかける人だった

私が実家で暮らしていた頃、母が36歳から55歳の頃、母は毎日大量の洗濯をし、毎日同じような茶色いおかずを作った

父が帰ってくると1分に1度大声を出されながら「お茶!」「フキン!」「早くどけろ!」などの指令にコマ鼠のように対応していた

私が覚えている母は口を開けて大きな笑顔で笑っているけれど、目の焦点はあっていない、そんな人だった

 

今、母は認知症になった

父の写真をみても父だと分からないし、話はよどみなくするけれど、母の20歳以降の記憶はガタガタだ

 

でも今の母は私のことを射るように見る

私のことをしっかりと見つめる

痩せて父と結婚する前のように細くなった母は、

「お泊りがしたいの!」

「湯たんぽを入れて!」

「それはしたくない!」

としたい事をしたいといい、嫌なことは嫌だと言う

私はそれを嬉しく感じながら、ふと「ここにいるのは誰なんだろう」と戸惑う

母はどんな人だったのかと、母が81歳になる今、ただ戸惑う

 

私が幼少期の母は、午後3時頃から毎日のように「お茶飲み」という近所の人を集めたお喋りの会をしていた

3日に1度くらいウチでも行われていたので、そんな時は一緒に炬燵に入っていたから、母たちがインスタントコーヒーと持ち寄りの食べ物をつまむ横で、クリープをとかした飲み物をもらったりしていた

あの頃は「大人になったらお茶飲みをするんだ」と信じていたけれど、大人になった私が自宅に他人を招くことは殆んどない

いま思えば一体何を話していたのか疑問しかないけれど、思い返してみても「リンゴを取り寄せよう」とか「あそこの家の子の成績」とかどうでもいいような話をずっと繰り返していたように思うし、その時母はどんな顔をしていたのかと思えば、やはり目の焦点があってないような虚ろな表情だった

母は会話をリードするタイプではなく、「そりゃそーだ!あはは!」とか「やっぱりさくいね!」とかお決まりのフレーズを嬉しそうに連呼しているだけで、あまり意味のあることを発する人ではなかったように記憶している

楽しくて楽しくて、という風には見えなかった

やるのが普通だから、みんなやってるからやる、そんな風に見えた

 

だから晴れた日は近所中同じ布団が干されていたし、子供達はみんな同じような服を着ていた

 

お茶飲み情報交換で得た知識からはみ出さないようにしている母は、やはりどうでもいいような服を着て、近所の奥さんと同じ子育てをして、ちびまる子ちゃんの母のようなパーマをかけ、父の大声にハイハイとしたがいながら生きていた

 

私はアンティーク家具を買うことや、洋服を買うことも好きだし、読書や仕事や筋トレも好きだ

だけど母が何が好きだったのか、私には分からない

 

母はお茶飲みの他に隠れて何かを食べていたから、もともとはスレンダーだった人だがどんどん肥えていった

 

私が19歳の頃

「お母さんって何にもないよね」

と言った時、珍しく母は怒った

「あんたたちがいるから我慢しているだけで、やりたいことも趣味もたくさんある!」

そんな風に言ったような気がする

 

それから水泳や書道を始めて、水泳はクロールも平泳ぎもバタフライも2キロづつ泳いでいたり、書道はグループ展を開くまでになった

だけどそれでも本当に好きで好きで堪らないという風には見えなかった

洗濯をするように、趣味活動をしているように見えた

 

過食は続いていたし、父には怒鳴られ続けていて、その大声を上手くさばくことには長けていったけれど、あまり興味を引かれる女性ではなかった

 

人の顔色を見るのが上手い人、いつも気を使っている人、欲しい物さえない人

 

決して嫌いではなかったし優しい女性だと思っていたが、よく分からない人だった

 

そもそも母は私にあまり興味がなかった

私が学校に行っても行かなくても気にしなかったし、成績もどうでもよかった

近所の人に「Jちゃんは成績いいね」とか「また表彰されていたね」とか聞くと喜んでいたが、私の話は聞いてなかったし、私も話さなかった

ー過不足なければいいー

きっとそうだったのだろう

父はいつも大騒ぎをしているし、兄は非行行為を頑張っているし、末子の私にかまけている暇はなかったのかもしれない

 

だけど、それでも

元気だったころの母を思い出そうとすると、輪郭がぼやける

母がどんな人だったのか分からない

 

去年の年末、私は母と父を分離した

警察も行政も介入した

父が認知症になった母を認められず、暴力がエスカレートしたからだ

母は現在要介護2で、ADLは問題がない

 

母は大声でしきりに「ご飯食べてない!」「お泊りがしたい!」と騒ぎ、お気に入りのズボンを脱がず、お気に入りの職員は離さず、卓球では一番になりたくて頑張りすぎて骨折し、とにかくやりたい放題をしながらグループホームで暮らしている

 

私は定期的に会いに行く

私の顔を見つけると

「私の娘!!」

を連呼し、ホームの全員に娘が来たことを自慢して歩く

「私のお姉さんなの!」

と母なりのギャクを飛ばす日もある

でも私は内心(本当にそんな気持ちなんだろうな)と思っている

 

何でも買ってくれる娘、たいていの願いを聞いてくれる人、全部面倒みると確約してくれて怒鳴らない人、優しく笑ってくれる人、それが私だ

 

(誰かに守ってもらいたい人だったんだな…父はその役はしていたんだろうな…私がいれば父は必要ないし、父は暴力や怒声もセットでついてきたからもう記憶から消してもいいんだな…)

 

母の認知状態は、一般的な認知症とはどこかずれていて、たぶんベースには精神的なトラウマにまつわる乖離状態や発達障害傾向があり、認知症により抑制が外れ元々の特性が顕著になっているのだと思う

 

それは分かる

しかしそれでも

この目の前にいる生き生きとした高齢のスレンダーな女性は母なのかと

本当に母なのかと、会うたびにいぶかる

 

晩年はおどおどしたような声で

「J?今いい?」

と電話をかけてきた母

あの電話を受けたいけれど、あの声を聞きたいけれど、あれは母だったのだろうか?

 

近頃私は二人の母を並べては、頭に疑問符を浮かべている

わかなくなってしまったのだ

 

母がどんな人だったのか

母が何を考えていたのか

無難に生きたいだけのつまらない女性だと思っていたけどそうじゃなかったのかなとか、謎がたくさん出てきて私を戸惑わせる

 

だけど思うんです

もし今の母が、母の本体だとしたら、どうしてこうなるまであんな風に自分をぼやかさなけれな生きてこれなかったのかなって

悲しいなと思うんです

 

もう私を庇護する力を失った両親に思いをはせながら、ときおり、哀しくてさみしくなりながら、考えても仕方ないことをぼんやり考えているだけなんですけれどね

 

私の母ってどんな人だったんでしょうね