J.B‘LIFE

J.Bの日々連想的なブログです

あの日、私は桃源郷にいた

今日の仕事は疲れました

分かってはいることですが、無料の心理相談ではしょっぱなから怒鳴られることもあります

ただただ傾聴しますが、色んな事情や病気を抱えている方もいて、怒りの感情を吐き出すことで楽になって頂けるならいいのですが、益々苦しんでいくのを見続けるのはしんどいっちゃしんどい

1日16件のお話を聞きながら、キモチを揺らさないように努めながら、そして帰りにバターチキンカレーを買おうと決心しながら財布がカバンにないとか、しんどいっちゃしんどい

「なんで私はこの仕事してんのかな…」

「辞めた方がいいっていうか…むしろ死んだ方がいい…」

「さっきの記録、全部完璧な逐語記録にして検討したい」

もう、心の中はネガティブモード炸裂です

ただ、何でこの仕事してんのかはいつも考えるし、人に聞かれもする

そのたびに何となくちょうどいい答えを探して良い塩梅に答えていますが、さっきミルクティーを飲みながら浮かんだのは

桃源郷…私は桃源郷に行ったことがあるからだ…」

そう合点がいきました

 

 

私は桃源郷に半年通ったことがあるのです

 

あれは私が32歳の頃だと思います

当時の夫が脳梗塞で倒れ半年間の入院・リハビリ治療のすえ退院してきましたが、装具を付けやっと歩く様になった彼に働くことは無理でした

私は彼が倒れる1年前から介護福祉士の通信教育をNHK学園で勉強していました

現場に出なくとも介護福祉士の受験資格が得られるものでした

「これからは私が稼ぐんだ!」

それまで秘書とフリーライターしかしたことがない私が、福祉の世界に飛び込む覚悟をしたのは生活費の為です

家族を食べさせて、子供の教育費を稼がなきゃいけないからです

 

介護福祉士国家試験を受けた私は、点数的に安全な事を確認しつつ『介護福祉士取得見込み』で社会福祉事業団の巨大な障害者施設の入職試験を受けました

当時は就職氷河期でしたから、10名の枠に300人位の受験者がいたのを記憶しています

山奥の巨大コロニーの大きな体育館で、新卒の若者に交じって半日筆記試験を受け1次試験に合格し、2時面接で補欠合格となりました

正規に受からなかったのは残念でしたが、嘱託職員も募集しており、今回合格した10名中8名は嘱託を数年務めて職員採用試験を受け続けた方たちばかりと知り、また『職員が年度途中に辞めたら繰り上がり正式採用する』という説明をうけ、私は入所者600人の巨大障害者施設の嘱託職員になりました

パンプスとスーツしかもっていなかった私が、学生時代以来はじめてスニーカーとジャージを買いました

「どんな仕事だか分からないけど、家族のために働く!」

私の鼻息が荒いのと同時に、着なれないジャージはびっくりするほど似合いませんでした

 

(ここからは個人が特定できないよう複数の人物を混ぜて一人の方を書くなどを行っています。また、施設名称・呼称はすべてフィクションです)

 

私が担当するのは『きりん寮』でした

きりん寮は男性利用者25名が暮らす寮です

この寮を男性3人、女性3人の職員が当番制で夜勤帯は一人、朝晩遅番は一人、日勤は4人で担当していました

入寮者は10代から70代まで、いろんな方がいました

最初に寮の居間スペースに入った時は、私は衝撃で言葉が出ませんでした

奇声を上げて走り回る人、股間から性器を半分だし両手で掻きながらその部分のかさぶたを食べる人、猫背でうろつきまわる人は6人位、半数くらいの利用者は居間の隅に固まっていたでしょうか?

興味ありげに私を見る人も数人ほど、あまり興味もなさそうでした

私が挨拶をしようとしても聴いてくれる人はほとんどなく、

トイレットペーパーを大量に抱えて走る若者に

「きなせ!!!てめえ!!!」

と男性職員が怒鳴って追いかける声が響くばかりでした

「たばこくれたばこくれたばこくれたばこくれ~~~~」

七福神そっくりの風貌のおじいさんがぬるぬると私に手を差し出し、

「ダメだよ馬淵ちゃーん!もう今日は一箱すっただろ?」

「たばこくれたばこくれたばこくれたばこくれ~~~~」

エンドレスです

あっちでは「うきききーーーー!」という声、こっちでは黙ってベッドに帰ろうとする者あり、かすかに便臭のようなにおいが漂い、

「あの鈴木さん、おれもうクリーニングとってくっか?」

「ああ頼むよ、小松さん」

誰が誰やら、職員なんだか利用者なんだか分からないしっかりした先生然とした老人もいました

(私、ここでやっていけるのかな…)

挨拶もそこそこに覗いた利用者用トイレにドアはありませんでした

水がびちゃびちゃで、なぜかトイレットペーパーもありません

「ああ、全部木名瀬が使っちゃうんだよ、だからかくしてるの。去年の予算は秋には使われちゃったからね」

職員の屈強な男性Aさんが説明してくれました

(本当に大丈夫なのかな…)

着なれない真新しいジャージに身を包んだ私には不安しかありませんでした

 

当時のこの施設には職員は300人余りいたと思います

山に点々と民家のような寮が散らばり、全部の入寮者を把握する人は皆無だったのではないでしょうか?

山を半分切り開いたような広大な土地に、身体障害・知的障害のある方が入所していました

きりん寮は「自立度が高い方の寮」と呼ばれ、半分くらいの入寮者が言葉が通じましたが、他のほとんどの寮では言葉は通じない方が多いとのことでした

きりん寮は敷地の真ん中ほどにある別施設で、きりん寮の中の社会的自立できそうな方を選んでグループホーム移行練習もしていました

「小松さんとか佐川さんはさ、もう70過ぎじゃん?戦争のどさくさで本当は知的障害じゃないと思うんだけど、字が読めないとか奉公先の都合とかで入所になったんだと思うんだよね。もうこの寮の職員さんみたいだよ」

先輩職員が教えてくれましたが、数名の入寮者はどうしてここにいるのか疑問がわくような方でした

「このコロニー形式も終わらせなきゃいけない時代でしょ?どんどん地域に戻さなきゃいけないんだけどうまくいかないんだよね」

長年ここで生活してきた方は地域での生活は全く知らず、それを望んでいるのかも分かりませんでした

施設ではリーダー格だった小松さんと山を下りてズボンを買いに行ったとき、小松さんは私の後ろで小さくなっていたのが印象的でした

「ほかの人は、知的障害で自立生活は難しそうな人が多いし、家族も来ない。措置時代からの年金がすごくたまってるから、夏休みに小遣い目当てに迎えに来てくれるならましな方だよ。みんなここしかない。たばこたばこの馬淵ちゃんは20くらいまで地元で暮らしてたんだけど、悪いことするパシリに使われてね、みんないろいろあるんだよ」

 

一緒に生活していくうちに、入寮者のこともだんだんわかるようになってきました

〇木名瀬くん=30歳、知的障害を併せ持つ自閉症、トイレットペーパーと洗剤に執着、夜中にリビングで自慰行為をする

〇佐川くん=28歳、自閉症、脱走する、常に股間を掻きかさぶたを食べる

〇馬淵くん=60代?知的障害、たばこ依存で耳からも煙が出る、七福神みたい、作業嫌い

〇翔ちゃん=常に性器を触ってる。好きな言葉は「おねーちゃん」

〇学くん=18歳最年少、自閉症、非常ベルを鳴らす、嫌いな職員の車の上でジャンプ、軍手に固執する

〇小松さん=70代、知的障害???職員のような利用者

私はペーパー介護福祉士でしたが、当時この施設全体で社会福祉士は4名しかいませんでした

いまならもっと詳細にアセスメントできると思いますが、教科書で知った知識以外は何も知らない状態でした

職員の方々は男性職員Aさんを覗けば穏やかで優しい方ばかりでした

作業班が6つくらいあり、山のどこで作業するか分からなかったり、実際迷子になって事故が起こったこともあると噂のある施設でしたから、女の私でも引率できる入寮者を見きわめるまでは留守番担当(作業をさぼりたい人と寮でオヤツを用意したり掃除したりしながら待つ)を5月くらいまで担当してました

 

山の空気は綺麗でした

 

入職してしばらくすると、私の出勤を数名の人が山の入口に立って待っていてくれるようになりました

発語がない人もある人も、黙って、ただ私を持っていてくれます

私がつくと蟻の行進のように並んで歩きます

 

お世辞にも綺麗な状態とは言えない室内で、お風呂もドボンと巨大浴槽につかって飛び出してしまう男性を捕まえては水虫薬を塗ったり、大騒ぎしながらきったない配膳にみんなでギャーギャー騒いでする食事は、家族や自分が災難や病気続きだった私の心の奥を溶かしていきました

 

そのころのきりん寮の問題児は木名瀬くんと学くんで、他の入寮者はどうにかこうにかなんとなく職員とも利用者ともつながりのような関係を持って暮らしているように見えたのですが、若い二人はなかなかなじめず、時折職員Aさんが裏で怒鳴ったりしてる様子も伺えました

Aさんが怒鳴って言う事を聞かせた後、木名瀬くんも学くんもかえって不穏になり、学くんはAさんの車の上で飛び跳ねたりしました

「学はいいって言われてるの!飛んでいいって言われてるの!」

叫び続ける学くんに

「まなぶーーーー!!!!!てめえ!!!!!」

新車を自慢していたAさんは怒り狂いましたが、(よくやった!学くん!)と私は内心エールを送ってしまったほどです

 

私なりにきりん寮を好きになり始めた5月頃、私は休みの日も図書館に通い自閉症の勉強を始めました

夜勤の時は木名瀬くんが自慰行為を始めても、しょうちゃんが「おねーちゃーんおねーちゃーん」とガラス越しの宿直室の側を離れなくても、佐川くんがちんちんをいじり続けようとも、安全を確認できた時は、ひたすらみんなのカルテを読み続けました

(木名瀬くんが一度にトイレットペーパーを6個使って他のみんながお尻を拭けないのはどうかと思う…)

たくさんの古い記録がありました

変色した紙に手書きで書かれていました

50年前に描かれた記録もありました

いろんな困難な出生や辛いエピソードがカルテにかかれていましたが、木名瀬くんについては生育歴の記載はなく、空白ばかりのカルテで、アセスメントされた様子はほとんどありませんでした

祖母に隠すように育てられた木名瀬くんには情報そのものがあまりないようでした

 

6月になると、私は誰ともコミュニケートしない木名瀬くんとの関係つくりに勝手にチャレンジ始めました

 

「Jさんやめときなよー、むだだよー」

Aさんは言いました。でも私は言葉を話さないけど素早くみんなを観察してトイレットペーパーや洗剤を盗む木名瀬くんと、話してみたかったんです

「木名瀬くん!だめ!みんなでつかおう!」

トイレットペーパーを盗む現場を捕まえ、私は木名瀬くんの顔の前に顔を寄せ話かけましたが、

「うー、うー!」

静止をしばらく続けてると木名瀬くんは私を突き飛ばしました

180センチの立派な身体を持っていましたから、私は簡単に飛ばされてしまいました

(だめだ!私が怪我したら木名瀬くんが怒られる!)

やり方が違うんだと思いました

私は暇があるときはずっと木名瀬くんを観察しました

木名瀬くんはトイレットペーパーと洗剤を独り占めするために、忍者のように生活していました

けれど、ポンキッキーズの͡コニーゃんが出た時だけ、動きが止まりました

数日確認しても、やはりコニーちゃんで動きが止まりました

私は素早く木名瀬くんの前に立ちはだかり

「じゃかじゃかじゃん、じゃかじゃかじゃん、じゃかじゃかじゃんけんじゃんけんぽん!」

と踊ると、木名瀬くんは一緒に腰を振りました

「じゃかじゃかじゃん、じゃかじゃかじゃん、じゃかじゃかじゃんけんじゃんけんぽん!」

私はしつこく繰り前しましたが、木名瀬くんは無表情のままでしたが、じゃかじゃか言いながら私とジャンケンをしました

(つうじた!つうじた!)

私は飛び上がりたいほど嬉しかったけれど、木名瀬くんは何でも無いようでしたけど、

私は何かをつかんだような気がしていました

 

それ以来、私は木名瀬くんの執着物品盗難現場を見つけた時は踊りましたし、木名瀬くんは苦しそうな顔しながらつい踊ってしまい、その間に、他の職員がまたトイレットペーパーを避難させるというような仕組みが産まれました

 

木名瀬くんは私に暴力を振るうことはなく、私も木名瀬くんが大好きでした

 

木名瀬くんだけじゃありません

翔ちゃんも佐川くんも馬淵くんも学くんも小松さんも、名前をあげなかった他の人もみんな好きでした

 

部屋から出ない三井さんは私が夜勤の時にはミニカーを見せてくれました

翔ちゃんと馬淵くんと小松さんと畠中くんとは草むしり班を担当しました

小松さんはエリートですから誰よりも働いてくれましたが、他のみんなはちっとも草取りしませんでした

「翔ちゃん!ちゃんとやりなよ!」

「おねえちゃーん!!」

そんなこと言いながら、みんなで草の上に座ってぼんやりしながら作業時間が終わるのを待っていました

小松さんが集めてくれる草を戦利品に、みんなとお日様の下で作業に出た人用の甘いお茶を飲みました

ちょっと目を話せば馬淵くんと畠中くんが地味な喧嘩をはじめ、馬淵くんが草刈り鎌を振り上げたりしますから目は離せまませんでしたが、ポカポカして、暖かくて、緑の匂いが懐かしくて、私はこの場所が大好きでした

 

7月になると、作業がない日は参加者を募って私だけで山に散歩に行くことも出来るようになっていました

本物の山でした

サボるのが大好きな人が大多数でしたが、小松さんのような立派な人もいて、そういう人はさっさと私を置いて先に行ってしまいますから、完璧な引率とはとても言えませんでした

みんなで木の枝をひろったり、畑を見に行ったり、あやめの池を眺めたりしました

道の途中で性器を出す人は相手にしないことにしました

相手にして行動を助長しないようにと思っていましたが、心底嫌とかそういう気持ちはありませんでした

(まったくしょうがないな)

この施設入寮者で性交渉できる人はいない、自慰行為ができる人がほんの数人だととAに聞きました

「そういうことするにも学習能力や知性が必要なんじゃないかな」

そんな説明を聞き、私は納得していましたし、なにより彼らが見せるそれはただの身体の一部にしか感じないようになっていたからです

 

山の静寂と、安心しきった仲間

風と木漏れ日、いつもより嬉しそうなみんなの表情

そんな時間が私の中にキラキラとした宝石のように溜まっていきました

 

8月になると、私の出勤をきりん寮の半分位の人が山の入口で待っていてくれるようになりました

私は見えるとそのうちの半分が身体を揺らして喜んだ様子を表現していました

拍手する人もいました

私がつくと笛吹の行進のようにみんなで歩きます

私もみんなが大好きで、ずっとここに居られますように、一日に何度もそう願っていました

 

家ではママがいないことを子供たちが寂しがってることも知っていました

装具を付けていた当時の夫は、装具を付けたまま夜遊びに行ってしまうようでした

「でも正規職員になればきちんと昇給もするし、ボーナスも出る」

私はもう少しで中学生になる娘の中学受験も検討していました

元々は子供に安心な家庭を築くため本格的に働いているのです

何人か今年度採用の正規職員が辞めました

仕事内容が合わなかったと言って辞めていきました

私は(いつ正式採用されるのだろうか?)という不安がしきりに頭をよぎる様になっていました

 

その頃です

一人活動が多かった学くんが他の職員がいないときに私に近寄ってくるようになりました

私は嬉しくて、時間を見つけては学くんの軍手洗いを一緒に手伝ったり(洗い直されますが)して、学くんと交流を増やそうとしていました

「半ズボンをはいて」

はじめて学くんが私に言った言葉です

「半ズボン?半ズボン持ってないよ?」

「半ズボンない?」

「ない」

そんな会話をしました

暑い夏でした

男性職員や年長の女性職員はハーフパンツをはいて夜勤入りしたりもしていました

(高校の時のバスケ部のハーフパンツ、どっかにあったかな…)

私はうっすらそう思いつつ、約束はしませんでした

 

9月、総務から「補欠合格の繰り上げ採用はない」と連絡が来ました

私は今年度の正式採用はなく、また来年職員採用試験が行われた場合は試験によって採否が決まるという話でした

「嘱託して待ってる人が結構いるからさ、しばらく難しいんじゃないかな」

情報通のAさんは言っていました

 

その頃、民間の高齢者デイサービス施設の管理者兼相談員の募集を見つけました

昼間だけの仕事で、手取りは月8万上がります

もちろん正社員募集でした

(受けてみよう)

私は家族のために、生活のために採用試験を受け、その場で採用されました

(こことはお別れになるな)

私は9月末で退職することになりました

 

私が退職することを話すと、職員の皆さんは事情も含めよく理解してくださいました

「仕方ないね、家族の生活があるからね」

そんな風に言ってくれました

「みんなに挨拶とか…?」

「いらない、いらない。どうせ覚えていられないから」

Aさんはそう言いました

 

私は最後の夜勤の日、ハーフパンツをはきました

遅番の職員さんも、入寮者のみんなも特に変わったことはない、普通の夜でした

学くんはチラッと私の姿を見ただけで自室に閉じこもってしまいました

(半ズボンじゃなかったからかな…それとも学くんは頭がいいから辞めること気が付いてるのかな…)

 

遅番が帰って、いつも通りの夜勤が始まりました

みんなが一通り私にまとわりつき、夜の11時半に居間の真ん中で木名瀬くんが自慰行為をしました

あとは静かになる筈だったんです

「ギャアー!!!ガタガタターーーーン !!!!!!」

すごい音が鳴り響きました

何事かと思いリビングに向かうと、食堂から学くんが走ってきました

食道を見ると、食器棚が倒され、きりん寮全ての食器が割れているようでした

(!!!!!!!!!!!!!!!)

私は電話で隣の女子寮職員に応援を求めました

直ぐに駆け付けてくれた職員は

「あー学くんね?ぁ―――最近やってなかったのに!学くん!学くん!(様子を見に行く)落ち着いてるようだから、そっとしておきましょ。ざっと片付けておけばいいわよ。そんなに気にしないで」

とたちまち片付けをしてくれました

(私のせいだ…よく考えもしないで学くんを興奮させたから…私のせいだ)

これが私の最後の夜勤でした

 

それから数日して、私は退職しました

 

学くん食器全滅事件は特にお咎めもなく

「だぁから安い食器で良かったんだよ!予算はとってあるぜ!」

となぜかAさんは得意げでした

挨拶しなくていいと言われたので、私はみんなに特別な挨拶はしませんでした

 

職員一同からいただいた花束を持って、私は帰りました

いつものようにほとんどの入寮者が私を見送りました

いつもはいない、木名瀬くんと学くんも庭に出てさりげなく私を見ていました

(4月の頃の見送りは6人くらいだったな)

私は手を振ってくれる人に手を振り返しながら

(泣いたりするな馬鹿!お前はここを捨てていくんだろう?)

と思っていました。

 

山は綺麗で、空気は澄んでいました

夕焼けの空が、みんなの楽しそうな表情を照らしていました

「おねーちゃーんーおねーちゃーーん」

という翔ちゃんの声が、どこまでも私の背中をついてきました

 

みんなからは顔が見えなくなった頃、私は大量の涙がごうごうと流れて出ていました

(みんないい人だったな…みんな私を信用してくれて、好いてくれて…私もみんなが大好きだったな…)

 

車に乗り込み、施設を振り返った時に思いました

ここは桃源郷だったんだと

私は支援しているつもりで、みんなに愛されていただけなんだと

こんなに真っ直ぐで綺麗な感情を、私のような人間に向けてくれた…

ここは桃源郷だったんだな、そう思いました

 

 

長くなりましたが、これが桃源郷の話です

で何が言いたいかというと、私は桃源郷にいたことがあるから、今も福祉が大好きなんです

あの日のみんなに、きっともう私を忘れちゃったみんなとしたたくさんの楽しい思い出があって、今度はこれから出会う人に少しはお返しが出来る人間になりたくて勉強してきたんです

 

あれから約15年

資格はたくさん取りました

どうなんだろう、こうやって書いてみると当時の私の方が頑張ってたような気もしなくもない…

ぐちゃぐちゃ言わないで仕事しなくちゃね

みんなが見送ってくれたんだから仕事しなくちゃいけないですね

今そう思いました

やめません

仕事は辞めるかもしれないけど、福祉は止めません

がんばります

がんばるしかないですよね

 

桃源郷といえなくても、ミニ桃源郷を私の手で作ってみたいな、そんな風に思っています