J.B‘LIFE

J.Bの日々連想的なブログです

カウンセリングにインスパイアされた私はマチルダとフィーチャリングして人生をRPGする ①

気になって仕方なかった。

なぜ私はあの父と母のもとに生まれたのか?

あの家で私は何を目的として生活すればよかったのか?

なぜ、もし神様がいるのなら、どうしてあのメンバーと家族にしたのか?

私が生まれた意味は何なのか? 

 

私は1973年関東のとある工場外に生まれた。工場の現場主任の父と、専業主婦の母。9歳上の兄、5歳上の姉の5人家族だ。

喧嘩も多いけど笑いの絶えないにぎやかな家。サザエさん家のような家族。

他の家庭を知らない私がそう思っていたのはいつ頃までだったろうか?

 

神主だった父親を7歳の頃亡くした父は、祖母が柔剣道場の管理人という職を得た関係上、道場で育った。

三男である父は定時制高校を卒業後、すぐ工場で働で働き、四男五男の学費を稼ぎ大学まで行かせた。身長は160センチで体重は75キロくらいある身体は筋肉質で、父は剣道と柔道の師範だった。

 

父は私が産まれた頃、母の実家からの資金援助で家を建てた。

母の実家は資産家だったが、父はその話をされるのを嫌っていた。

私の育ったその家には、床の間に刀が3本と短刀数本が飾ってあった。

父はオーダーメイドのスーツとリーガルの靴しか履かなかった。

工場街での父のあだ名は『校長先生』。

温和そうな笑顔とテノールの落ち着いた声。かと言えば不良上がりの若者も面倒をみて手なずけ、工場の一翼にしてしまう手腕で地域の信頼を得ていた。

規則正しく7時15分に家を出て18時に帰ってくる父は、家に帰ると必ずお酒を飲んだ。

居間の一番中央には『父の座椅子』という席があり、家に居る時の父はそこから動かなかった。

「おい淑子!」「何やってんだ!」「ここ拭け!」「バカが!」

1分に1度のペースで母を怒鳴りつけ、母は独楽鼠のように動き続ける。母はいつも必死で命令に従っていて、それが日常だった。

子供達の暮らしも父の機嫌で簡単に変わる。

静かにすること、父の前でテレビを見たいと言わないこと、父の木の触る話をしないこと、でも自室に閉じこもったりしないこと…ある一定の法則はあるが、それらを守っていたとしても父の状態によってはどうにもならない日々。

酔った父は、怒鳴る。

怒鳴るが、人間不思議なもので、たとえ子供であっても、何度繰り返されていても納得いかないものに屈服したと思われたくないものなのだ。なので、兄や姉は平気を装う。そして子供や母が心底怖がった表情をしない場合、父は「バカにされた」と受け取る。

そこからは、阿鼻叫喚だ。

子供を正座させ本物の刀を振り下ろし寸止めする、それを涙目で他の家族は見つめる。

何かお祝いの席・例えばクリスマスとか誕生日とかの場合は、そもそも浮かれている家族の様子が気に障り、ごちそうが乗ったテーブルはひっくり返される。

振り下ろされる刀、怒号、成長した兄と父の殴り合い、割れるガラス…

私は歳の離れた末子だったのでそれをずっと見てきた。

私に対しても、びんたや折檻はもちろんあった。暗い物置に閉じ込められることも普通にあった。

小学生の頃、ささやかな楽しみであった友人に漫画を借りる行為は父を激怒させ、借りた漫画は庭で燃やされた。

父は私が父以外のモノに興味を抱いたり楽しみを見出すことを病的に嫌った。

私が殴られ蹴られ、刃物を喉元に突きつけられるようになったのは、あの家を出ようとし始めた19の頃からだ。

それでも振り払うように私はあの家を出た。

同じ市内で働いていた為、父の知人がやって来て、父が憔悴しきって夜も眠れないことや頭が真っ白の白髪になってしまったことを伝えに来た。

それでも私は家には戻らず、結婚し子供を産んだ。

あの家に戻ったとして、何が待っていたというのだろう?

笑った顔が可愛かったから生意気だと殴られ、部屋にコーヒーを運ぼうとすると「自分だけ飲む気か!」と怒鳴られ、「誰の金で食ってんだ!」と言われるのが嫌でお金は家に入れ食事は自分で買ってきた食材で作り、それだけしても毎日怒鳴られ続ける生活に何があるというのだろう?

20歳で家を出た私は、それ以降あの家に泊まったことはない。

子供が小さい頃は月に1度、子供が学校に上がってからは年に6回程度、手土産をもって顔を見せに行っていた。

兄や姉も早くに結婚し、家を出ていた。

兄は結婚5年後から兄嫁と実家が険悪になり、両親とは絶縁状態だった。

姉は結婚離婚を繰り返し、子供を実家に預けっぱなしにしたりもしていたが、諍いを繰り返し、ここ10年は絶縁状態だった。

それでもどうにか、私は実家に行っていたし、関係も距離を保ちながらどうにか続けていた。訪問時には大量の寿司やお酒を携え、「おじいちゃん、おばあちゃん」といつまでもなつく可愛い孫2人も同行した。

「このままこの関係が続けば…」

そう案じていたが、2018年に恐れていた事態が起こった。

母の認知症が進行し、徐々に父の母に対する暴力がエスカレートしていったのだ。

そのたびに助言し、忠告し、段階的に第三者を介入させていったが暴力は止まらなかった。そればかりか、周りが注目し集まってくることで暴力が強化されて行ってるようだった。地域包括支援センター、市役所高齢福祉課、最後は母自身が警察に通報し、両親は分離させるようにとを警察から告げられた。

そして母を介護施設に入所させたくない兄や、関わらないのに私に暴言だけ吐く姉の希望に沿い、私が母の成年後見人申し立てを2020年1月に行い、6月15日に母は被後見人になった。母の後見人は裁判所に一任し、弁護士が従事することになった。

2018年12月、父が事件を起こしてから私は母の通帳印の受け渡しで2019年1月4日に父にあったのを最後に、私は父に会っていない。

父の葬式にも兄姉との関係で出ないつもりだ。

兄姉との連絡もとるつもりはない。

彼らに関わる時、私は主治医から処方された抗不安薬を飲む。

それでも動悸もその場面の苦しさもぬぐい切れない。

懸命に両親のために動いては非難され、「もっと金出せ、俺達を敬え、両親の家に住み込め、自分の子どもの就職の世話をしろ、借金の保証人になれ」と要求はエスカレートするばかりなのだ。

 

だから私は母以外の定位家族との関係を切った。

私に不安しかもたらさない関係を切った。

私にそれができたのは、それらが出来る知識と業務上の経験があったからだ。

 

私は社会福祉士精神保健福祉士、公認心理士だ。

開業して家族関係の再構築の相談を受けてもいる。成年後見人として活動もしている。

その関係で、数えたことはないが、1000ケースは越える家族に関わり、何度も何度も家族について法や制度を使って介入してきたのだ。そこに感情がなかったとは言わないが、自分のことではなかったのは確かだ。自分のことではないからこそ専門性を発揮してきた。

今回も、社会福祉的介入は見事だと自分でも思う。

これだけ迅速に、的確に家族システムに切り込めたのは、私がプロだからに他ならない。

この先起こりそうな揉め事もシュミレーションは完璧で、私はそのための法的処置も難なくとれる。

だけどなぜだろう。

私が月数回面会し様子を見てきた、綺麗な施設でかわいがられている母のことはいいのだ。

だけれども、私の夢には「可哀想な父」「落ちぶれた父」が半泣きの表情で現れる。

道端にいる険しい顔の歳老いた男性は父に見える。

(父は兄にもまた絶縁されたと聞いている…どうやって暮らしているんだろうか?)

(父から頼まれれば…兄や姉と関わらないと約束してくれたら、私の近くに呼び寄せて世話をしてやれるんじゃないだろうか?)

(探偵を雇って父の様子を調べさせたい…)

成年後見人が選任され、母の身の安全が一生確保されたころから、私の父へ対する思いは執着のような感情をのぞかせ、私の脳裏を占拠した。

私の子ども達は東京で働き、自分で生活している。子育ても無事終わった。

私の仕事も順調で、依頼される仕事を半分は断るような状況で、かつプレッシャーもない。

悩みが無くなったからなのだろうか?

私は暇さえあれば両親とのことを考え続けるようになったが、それは答えの出ない作業で、私を苦しめた。

「しなければならないことを私はした。だけれども…なぜ私はあの父と母のもとに生まれたのか?あの家で私は何を目的として生活すればよかったのか?なぜ、もし神様がいるのなら、どうしてあのメンバーと家族にしたのか?私が生まれた意味は何なのか? 」

 

7月、私はカウンセリングを受けた。

私は自分の事務所でも心にまつわるカウンセリングを提供しているのに、私自身のカウンセリングを受けるのは初めてと言ってよい状況だった。

 

1時間半、柔和でありながら的確な相槌と質問を投げてくれるカウンセラーを前に、気が付けばゴウゴウと泣きながらグチャグチャと1時間半話し続けた。

「たくさん話したいことがあふれていたのね」

「今がその時だったのね」

「どうしてあなたはそうならなかったの?」

「書くことはどんな意味があったの?」

自分が話したことを残念ながら正確には覚えていない。

だけどカウンセラーからそう問われたことは覚えていた。

(どうして?どうして私はそうならなかったんだろう…)

 

カウンセリングからの帰り道、自分に問いかけながら頭に浮かんでいたのはロナルド・ダールの「マチルダは小さな大天才」という本だった。