J.B‘LIFE

J.Bの日々連想的なブログです

母のこと

私の母は認知症を患い、現在はグループホームで暮らしている

 

時折私は元気だったころの母を思い出そうと試みる

 

すると脳裏に現れるのは「洗濯機の前で背中を丸めている母」だ

駐車場の隅に置かれた洗濯機の前で母はバケツに水を貯め何かを洗っている

 

一度でも袖を通した衣類は必ず洗う人だった

兄や父のトランクスやブリーフにもアイロンをかける人だった

私が実家で暮らしていた頃、母が36歳から55歳の頃、母は毎日大量の洗濯をし、毎日同じような茶色いおかずを作った

父が帰ってくると1分に1度大声を出されながら「お茶!」「フキン!」「早くどけろ!」などの指令にコマ鼠のように対応していた

私が覚えている母は口を開けて大きな笑顔で笑っているけれど、目の焦点はあっていない、そんな人だった

 

今、母は認知症になった

父の写真をみても父だと分からないし、話はよどみなくするけれど、母の20歳以降の記憶はガタガタだ

 

でも今の母は私のことを射るように見る

私のことをしっかりと見つめる

痩せて父と結婚する前のように細くなった母は、

「お泊りがしたいの!」

「湯たんぽを入れて!」

「それはしたくない!」

としたい事をしたいといい、嫌なことは嫌だと言う

私はそれを嬉しく感じながら、ふと「ここにいるのは誰なんだろう」と戸惑う

母はどんな人だったのかと、母が81歳になる今、ただ戸惑う

 

私が幼少期の母は、午後3時頃から毎日のように「お茶飲み」という近所の人を集めたお喋りの会をしていた

3日に1度くらいウチでも行われていたので、そんな時は一緒に炬燵に入っていたから、母たちがインスタントコーヒーと持ち寄りの食べ物をつまむ横で、クリープをとかした飲み物をもらったりしていた

あの頃は「大人になったらお茶飲みをするんだ」と信じていたけれど、大人になった私が自宅に他人を招くことは殆んどない

いま思えば一体何を話していたのか疑問しかないけれど、思い返してみても「リンゴを取り寄せよう」とか「あそこの家の子の成績」とかどうでもいいような話をずっと繰り返していたように思うし、その時母はどんな顔をしていたのかと思えば、やはり目の焦点があってないような虚ろな表情だった

母は会話をリードするタイプではなく、「そりゃそーだ!あはは!」とか「やっぱりさくいね!」とかお決まりのフレーズを嬉しそうに連呼しているだけで、あまり意味のあることを発する人ではなかったように記憶している

楽しくて楽しくて、という風には見えなかった

やるのが普通だから、みんなやってるからやる、そんな風に見えた

 

だから晴れた日は近所中同じ布団が干されていたし、子供達はみんな同じような服を着ていた

 

お茶飲み情報交換で得た知識からはみ出さないようにしている母は、やはりどうでもいいような服を着て、近所の奥さんと同じ子育てをして、ちびまる子ちゃんの母のようなパーマをかけ、父の大声にハイハイとしたがいながら生きていた

 

私はアンティーク家具を買うことや、洋服を買うことも好きだし、読書や仕事や筋トレも好きだ

だけど母が何が好きだったのか、私には分からない

 

母はお茶飲みの他に隠れて何かを食べていたから、もともとはスレンダーだった人だがどんどん肥えていった

 

私が19歳の頃

「お母さんって何にもないよね」

と言った時、珍しく母は怒った

「あんたたちがいるから我慢しているだけで、やりたいことも趣味もたくさんある!」

そんな風に言ったような気がする

 

それから水泳や書道を始めて、水泳はクロールも平泳ぎもバタフライも2キロづつ泳いでいたり、書道はグループ展を開くまでになった

だけどそれでも本当に好きで好きで堪らないという風には見えなかった

洗濯をするように、趣味活動をしているように見えた

 

過食は続いていたし、父には怒鳴られ続けていて、その大声を上手くさばくことには長けていったけれど、あまり興味を引かれる女性ではなかった

 

人の顔色を見るのが上手い人、いつも気を使っている人、欲しい物さえない人

 

決して嫌いではなかったし優しい女性だと思っていたが、よく分からない人だった

 

そもそも母は私にあまり興味がなかった

私が学校に行っても行かなくても気にしなかったし、成績もどうでもよかった

近所の人に「Jちゃんは成績いいね」とか「また表彰されていたね」とか聞くと喜んでいたが、私の話は聞いてなかったし、私も話さなかった

ー過不足なければいいー

きっとそうだったのだろう

父はいつも大騒ぎをしているし、兄は非行行為を頑張っているし、末子の私にかまけている暇はなかったのかもしれない

 

だけど、それでも

元気だったころの母を思い出そうとすると、輪郭がぼやける

母がどんな人だったのか分からない

 

去年の年末、私は母と父を分離した

警察も行政も介入した

父が認知症になった母を認められず、暴力がエスカレートしたからだ

母は現在要介護2で、ADLは問題がない

 

母は大声でしきりに「ご飯食べてない!」「お泊りがしたい!」と騒ぎ、お気に入りのズボンを脱がず、お気に入りの職員は離さず、卓球では一番になりたくて頑張りすぎて骨折し、とにかくやりたい放題をしながらグループホームで暮らしている

 

私は定期的に会いに行く

私の顔を見つけると

「私の娘!!」

を連呼し、ホームの全員に娘が来たことを自慢して歩く

「私のお姉さんなの!」

と母なりのギャクを飛ばす日もある

でも私は内心(本当にそんな気持ちなんだろうな)と思っている

 

何でも買ってくれる娘、たいていの願いを聞いてくれる人、全部面倒みると確約してくれて怒鳴らない人、優しく笑ってくれる人、それが私だ

 

(誰かに守ってもらいたい人だったんだな…父はその役はしていたんだろうな…私がいれば父は必要ないし、父は暴力や怒声もセットでついてきたからもう記憶から消してもいいんだな…)

 

母の認知状態は、一般的な認知症とはどこかずれていて、たぶんベースには精神的なトラウマにまつわる乖離状態や発達障害傾向があり、認知症により抑制が外れ元々の特性が顕著になっているのだと思う

 

それは分かる

しかしそれでも

この目の前にいる生き生きとした高齢のスレンダーな女性は母なのかと

本当に母なのかと、会うたびにいぶかる

 

晩年はおどおどしたような声で

「J?今いい?」

と電話をかけてきた母

あの電話を受けたいけれど、あの声を聞きたいけれど、あれは母だったのだろうか?

 

近頃私は二人の母を並べては、頭に疑問符を浮かべている

わかなくなってしまったのだ

 

母がどんな人だったのか

母が何を考えていたのか

無難に生きたいだけのつまらない女性だと思っていたけどそうじゃなかったのかなとか、謎がたくさん出てきて私を戸惑わせる

 

だけど思うんです

もし今の母が、母の本体だとしたら、どうしてこうなるまであんな風に自分をぼやかさなけれな生きてこれなかったのかなって

悲しいなと思うんです

 

もう私を庇護する力を失った両親に思いをはせながら、ときおり、哀しくてさみしくなりながら、考えても仕方ないことをぼんやり考えているだけなんですけれどね

 

私の母ってどんな人だったんでしょうね

あの日、私は桃源郷にいた

今日の仕事は疲れました

分かってはいることですが、無料の心理相談ではしょっぱなから怒鳴られることもあります

ただただ傾聴しますが、色んな事情や病気を抱えている方もいて、怒りの感情を吐き出すことで楽になって頂けるならいいのですが、益々苦しんでいくのを見続けるのはしんどいっちゃしんどい

1日16件のお話を聞きながら、キモチを揺らさないように努めながら、そして帰りにバターチキンカレーを買おうと決心しながら財布がカバンにないとか、しんどいっちゃしんどい

「なんで私はこの仕事してんのかな…」

「辞めた方がいいっていうか…むしろ死んだ方がいい…」

「さっきの記録、全部完璧な逐語記録にして検討したい」

もう、心の中はネガティブモード炸裂です

ただ、何でこの仕事してんのかはいつも考えるし、人に聞かれもする

そのたびに何となくちょうどいい答えを探して良い塩梅に答えていますが、さっきミルクティーを飲みながら浮かんだのは

桃源郷…私は桃源郷に行ったことがあるからだ…」

そう合点がいきました

 

 

私は桃源郷に半年通ったことがあるのです

 

あれは私が32歳の頃だと思います

当時の夫が脳梗塞で倒れ半年間の入院・リハビリ治療のすえ退院してきましたが、装具を付けやっと歩く様になった彼に働くことは無理でした

私は彼が倒れる1年前から介護福祉士の通信教育をNHK学園で勉強していました

現場に出なくとも介護福祉士の受験資格が得られるものでした

「これからは私が稼ぐんだ!」

それまで秘書とフリーライターしかしたことがない私が、福祉の世界に飛び込む覚悟をしたのは生活費の為です

家族を食べさせて、子供の教育費を稼がなきゃいけないからです

 

介護福祉士国家試験を受けた私は、点数的に安全な事を確認しつつ『介護福祉士取得見込み』で社会福祉事業団の巨大な障害者施設の入職試験を受けました

当時は就職氷河期でしたから、10名の枠に300人位の受験者がいたのを記憶しています

山奥の巨大コロニーの大きな体育館で、新卒の若者に交じって半日筆記試験を受け1次試験に合格し、2時面接で補欠合格となりました

正規に受からなかったのは残念でしたが、嘱託職員も募集しており、今回合格した10名中8名は嘱託を数年務めて職員採用試験を受け続けた方たちばかりと知り、また『職員が年度途中に辞めたら繰り上がり正式採用する』という説明をうけ、私は入所者600人の巨大障害者施設の嘱託職員になりました

パンプスとスーツしかもっていなかった私が、学生時代以来はじめてスニーカーとジャージを買いました

「どんな仕事だか分からないけど、家族のために働く!」

私の鼻息が荒いのと同時に、着なれないジャージはびっくりするほど似合いませんでした

 

(ここからは個人が特定できないよう複数の人物を混ぜて一人の方を書くなどを行っています。また、施設名称・呼称はすべてフィクションです)

 

私が担当するのは『きりん寮』でした

きりん寮は男性利用者25名が暮らす寮です

この寮を男性3人、女性3人の職員が当番制で夜勤帯は一人、朝晩遅番は一人、日勤は4人で担当していました

入寮者は10代から70代まで、いろんな方がいました

最初に寮の居間スペースに入った時は、私は衝撃で言葉が出ませんでした

奇声を上げて走り回る人、股間から性器を半分だし両手で掻きながらその部分のかさぶたを食べる人、猫背でうろつきまわる人は6人位、半数くらいの利用者は居間の隅に固まっていたでしょうか?

興味ありげに私を見る人も数人ほど、あまり興味もなさそうでした

私が挨拶をしようとしても聴いてくれる人はほとんどなく、

トイレットペーパーを大量に抱えて走る若者に

「きなせ!!!てめえ!!!」

と男性職員が怒鳴って追いかける声が響くばかりでした

「たばこくれたばこくれたばこくれたばこくれ~~~~」

七福神そっくりの風貌のおじいさんがぬるぬると私に手を差し出し、

「ダメだよ馬淵ちゃーん!もう今日は一箱すっただろ?」

「たばこくれたばこくれたばこくれたばこくれ~~~~」

エンドレスです

あっちでは「うきききーーーー!」という声、こっちでは黙ってベッドに帰ろうとする者あり、かすかに便臭のようなにおいが漂い、

「あの鈴木さん、おれもうクリーニングとってくっか?」

「ああ頼むよ、小松さん」

誰が誰やら、職員なんだか利用者なんだか分からないしっかりした先生然とした老人もいました

(私、ここでやっていけるのかな…)

挨拶もそこそこに覗いた利用者用トイレにドアはありませんでした

水がびちゃびちゃで、なぜかトイレットペーパーもありません

「ああ、全部木名瀬が使っちゃうんだよ、だからかくしてるの。去年の予算は秋には使われちゃったからね」

職員の屈強な男性Aさんが説明してくれました

(本当に大丈夫なのかな…)

着なれない真新しいジャージに身を包んだ私には不安しかありませんでした

 

当時のこの施設には職員は300人余りいたと思います

山に点々と民家のような寮が散らばり、全部の入寮者を把握する人は皆無だったのではないでしょうか?

山を半分切り開いたような広大な土地に、身体障害・知的障害のある方が入所していました

きりん寮は「自立度が高い方の寮」と呼ばれ、半分くらいの入寮者が言葉が通じましたが、他のほとんどの寮では言葉は通じない方が多いとのことでした

きりん寮は敷地の真ん中ほどにある別施設で、きりん寮の中の社会的自立できそうな方を選んでグループホーム移行練習もしていました

「小松さんとか佐川さんはさ、もう70過ぎじゃん?戦争のどさくさで本当は知的障害じゃないと思うんだけど、字が読めないとか奉公先の都合とかで入所になったんだと思うんだよね。もうこの寮の職員さんみたいだよ」

先輩職員が教えてくれましたが、数名の入寮者はどうしてここにいるのか疑問がわくような方でした

「このコロニー形式も終わらせなきゃいけない時代でしょ?どんどん地域に戻さなきゃいけないんだけどうまくいかないんだよね」

長年ここで生活してきた方は地域での生活は全く知らず、それを望んでいるのかも分かりませんでした

施設ではリーダー格だった小松さんと山を下りてズボンを買いに行ったとき、小松さんは私の後ろで小さくなっていたのが印象的でした

「ほかの人は、知的障害で自立生活は難しそうな人が多いし、家族も来ない。措置時代からの年金がすごくたまってるから、夏休みに小遣い目当てに迎えに来てくれるならましな方だよ。みんなここしかない。たばこたばこの馬淵ちゃんは20くらいまで地元で暮らしてたんだけど、悪いことするパシリに使われてね、みんないろいろあるんだよ」

 

一緒に生活していくうちに、入寮者のこともだんだんわかるようになってきました

〇木名瀬くん=30歳、知的障害を併せ持つ自閉症、トイレットペーパーと洗剤に執着、夜中にリビングで自慰行為をする

〇佐川くん=28歳、自閉症、脱走する、常に股間を掻きかさぶたを食べる

〇馬淵くん=60代?知的障害、たばこ依存で耳からも煙が出る、七福神みたい、作業嫌い

〇翔ちゃん=常に性器を触ってる。好きな言葉は「おねーちゃん」

〇学くん=18歳最年少、自閉症、非常ベルを鳴らす、嫌いな職員の車の上でジャンプ、軍手に固執する

〇小松さん=70代、知的障害???職員のような利用者

私はペーパー介護福祉士でしたが、当時この施設全体で社会福祉士は4名しかいませんでした

いまならもっと詳細にアセスメントできると思いますが、教科書で知った知識以外は何も知らない状態でした

職員の方々は男性職員Aさんを覗けば穏やかで優しい方ばかりでした

作業班が6つくらいあり、山のどこで作業するか分からなかったり、実際迷子になって事故が起こったこともあると噂のある施設でしたから、女の私でも引率できる入寮者を見きわめるまでは留守番担当(作業をさぼりたい人と寮でオヤツを用意したり掃除したりしながら待つ)を5月くらいまで担当してました

 

山の空気は綺麗でした

 

入職してしばらくすると、私の出勤を数名の人が山の入口に立って待っていてくれるようになりました

発語がない人もある人も、黙って、ただ私を持っていてくれます

私がつくと蟻の行進のように並んで歩きます

 

お世辞にも綺麗な状態とは言えない室内で、お風呂もドボンと巨大浴槽につかって飛び出してしまう男性を捕まえては水虫薬を塗ったり、大騒ぎしながらきったない配膳にみんなでギャーギャー騒いでする食事は、家族や自分が災難や病気続きだった私の心の奥を溶かしていきました

 

そのころのきりん寮の問題児は木名瀬くんと学くんで、他の入寮者はどうにかこうにかなんとなく職員とも利用者ともつながりのような関係を持って暮らしているように見えたのですが、若い二人はなかなかなじめず、時折職員Aさんが裏で怒鳴ったりしてる様子も伺えました

Aさんが怒鳴って言う事を聞かせた後、木名瀬くんも学くんもかえって不穏になり、学くんはAさんの車の上で飛び跳ねたりしました

「学はいいって言われてるの!飛んでいいって言われてるの!」

叫び続ける学くんに

「まなぶーーーー!!!!!てめえ!!!!!」

新車を自慢していたAさんは怒り狂いましたが、(よくやった!学くん!)と私は内心エールを送ってしまったほどです

 

私なりにきりん寮を好きになり始めた5月頃、私は休みの日も図書館に通い自閉症の勉強を始めました

夜勤の時は木名瀬くんが自慰行為を始めても、しょうちゃんが「おねーちゃーんおねーちゃーん」とガラス越しの宿直室の側を離れなくても、佐川くんがちんちんをいじり続けようとも、安全を確認できた時は、ひたすらみんなのカルテを読み続けました

(木名瀬くんが一度にトイレットペーパーを6個使って他のみんながお尻を拭けないのはどうかと思う…)

たくさんの古い記録がありました

変色した紙に手書きで書かれていました

50年前に描かれた記録もありました

いろんな困難な出生や辛いエピソードがカルテにかかれていましたが、木名瀬くんについては生育歴の記載はなく、空白ばかりのカルテで、アセスメントされた様子はほとんどありませんでした

祖母に隠すように育てられた木名瀬くんには情報そのものがあまりないようでした

 

6月になると、私は誰ともコミュニケートしない木名瀬くんとの関係つくりに勝手にチャレンジ始めました

 

「Jさんやめときなよー、むだだよー」

Aさんは言いました。でも私は言葉を話さないけど素早くみんなを観察してトイレットペーパーや洗剤を盗む木名瀬くんと、話してみたかったんです

「木名瀬くん!だめ!みんなでつかおう!」

トイレットペーパーを盗む現場を捕まえ、私は木名瀬くんの顔の前に顔を寄せ話かけましたが、

「うー、うー!」

静止をしばらく続けてると木名瀬くんは私を突き飛ばしました

180センチの立派な身体を持っていましたから、私は簡単に飛ばされてしまいました

(だめだ!私が怪我したら木名瀬くんが怒られる!)

やり方が違うんだと思いました

私は暇があるときはずっと木名瀬くんを観察しました

木名瀬くんはトイレットペーパーと洗剤を独り占めするために、忍者のように生活していました

けれど、ポンキッキーズの͡コニーゃんが出た時だけ、動きが止まりました

数日確認しても、やはりコニーちゃんで動きが止まりました

私は素早く木名瀬くんの前に立ちはだかり

「じゃかじゃかじゃん、じゃかじゃかじゃん、じゃかじゃかじゃんけんじゃんけんぽん!」

と踊ると、木名瀬くんは一緒に腰を振りました

「じゃかじゃかじゃん、じゃかじゃかじゃん、じゃかじゃかじゃんけんじゃんけんぽん!」

私はしつこく繰り前しましたが、木名瀬くんは無表情のままでしたが、じゃかじゃか言いながら私とジャンケンをしました

(つうじた!つうじた!)

私は飛び上がりたいほど嬉しかったけれど、木名瀬くんは何でも無いようでしたけど、

私は何かをつかんだような気がしていました

 

それ以来、私は木名瀬くんの執着物品盗難現場を見つけた時は踊りましたし、木名瀬くんは苦しそうな顔しながらつい踊ってしまい、その間に、他の職員がまたトイレットペーパーを避難させるというような仕組みが産まれました

 

木名瀬くんは私に暴力を振るうことはなく、私も木名瀬くんが大好きでした

 

木名瀬くんだけじゃありません

翔ちゃんも佐川くんも馬淵くんも学くんも小松さんも、名前をあげなかった他の人もみんな好きでした

 

部屋から出ない三井さんは私が夜勤の時にはミニカーを見せてくれました

翔ちゃんと馬淵くんと小松さんと畠中くんとは草むしり班を担当しました

小松さんはエリートですから誰よりも働いてくれましたが、他のみんなはちっとも草取りしませんでした

「翔ちゃん!ちゃんとやりなよ!」

「おねえちゃーん!!」

そんなこと言いながら、みんなで草の上に座ってぼんやりしながら作業時間が終わるのを待っていました

小松さんが集めてくれる草を戦利品に、みんなとお日様の下で作業に出た人用の甘いお茶を飲みました

ちょっと目を話せば馬淵くんと畠中くんが地味な喧嘩をはじめ、馬淵くんが草刈り鎌を振り上げたりしますから目は離せまませんでしたが、ポカポカして、暖かくて、緑の匂いが懐かしくて、私はこの場所が大好きでした

 

7月になると、作業がない日は参加者を募って私だけで山に散歩に行くことも出来るようになっていました

本物の山でした

サボるのが大好きな人が大多数でしたが、小松さんのような立派な人もいて、そういう人はさっさと私を置いて先に行ってしまいますから、完璧な引率とはとても言えませんでした

みんなで木の枝をひろったり、畑を見に行ったり、あやめの池を眺めたりしました

道の途中で性器を出す人は相手にしないことにしました

相手にして行動を助長しないようにと思っていましたが、心底嫌とかそういう気持ちはありませんでした

(まったくしょうがないな)

この施設入寮者で性交渉できる人はいない、自慰行為ができる人がほんの数人だととAに聞きました

「そういうことするにも学習能力や知性が必要なんじゃないかな」

そんな説明を聞き、私は納得していましたし、なにより彼らが見せるそれはただの身体の一部にしか感じないようになっていたからです

 

山の静寂と、安心しきった仲間

風と木漏れ日、いつもより嬉しそうなみんなの表情

そんな時間が私の中にキラキラとした宝石のように溜まっていきました

 

8月になると、私の出勤をきりん寮の半分位の人が山の入口で待っていてくれるようになりました

私は見えるとそのうちの半分が身体を揺らして喜んだ様子を表現していました

拍手する人もいました

私がつくと笛吹の行進のようにみんなで歩きます

私もみんなが大好きで、ずっとここに居られますように、一日に何度もそう願っていました

 

家ではママがいないことを子供たちが寂しがってることも知っていました

装具を付けていた当時の夫は、装具を付けたまま夜遊びに行ってしまうようでした

「でも正規職員になればきちんと昇給もするし、ボーナスも出る」

私はもう少しで中学生になる娘の中学受験も検討していました

元々は子供に安心な家庭を築くため本格的に働いているのです

何人か今年度採用の正規職員が辞めました

仕事内容が合わなかったと言って辞めていきました

私は(いつ正式採用されるのだろうか?)という不安がしきりに頭をよぎる様になっていました

 

その頃です

一人活動が多かった学くんが他の職員がいないときに私に近寄ってくるようになりました

私は嬉しくて、時間を見つけては学くんの軍手洗いを一緒に手伝ったり(洗い直されますが)して、学くんと交流を増やそうとしていました

「半ズボンをはいて」

はじめて学くんが私に言った言葉です

「半ズボン?半ズボン持ってないよ?」

「半ズボンない?」

「ない」

そんな会話をしました

暑い夏でした

男性職員や年長の女性職員はハーフパンツをはいて夜勤入りしたりもしていました

(高校の時のバスケ部のハーフパンツ、どっかにあったかな…)

私はうっすらそう思いつつ、約束はしませんでした

 

9月、総務から「補欠合格の繰り上げ採用はない」と連絡が来ました

私は今年度の正式採用はなく、また来年職員採用試験が行われた場合は試験によって採否が決まるという話でした

「嘱託して待ってる人が結構いるからさ、しばらく難しいんじゃないかな」

情報通のAさんは言っていました

 

その頃、民間の高齢者デイサービス施設の管理者兼相談員の募集を見つけました

昼間だけの仕事で、手取りは月8万上がります

もちろん正社員募集でした

(受けてみよう)

私は家族のために、生活のために採用試験を受け、その場で採用されました

(こことはお別れになるな)

私は9月末で退職することになりました

 

私が退職することを話すと、職員の皆さんは事情も含めよく理解してくださいました

「仕方ないね、家族の生活があるからね」

そんな風に言ってくれました

「みんなに挨拶とか…?」

「いらない、いらない。どうせ覚えていられないから」

Aさんはそう言いました

 

私は最後の夜勤の日、ハーフパンツをはきました

遅番の職員さんも、入寮者のみんなも特に変わったことはない、普通の夜でした

学くんはチラッと私の姿を見ただけで自室に閉じこもってしまいました

(半ズボンじゃなかったからかな…それとも学くんは頭がいいから辞めること気が付いてるのかな…)

 

遅番が帰って、いつも通りの夜勤が始まりました

みんなが一通り私にまとわりつき、夜の11時半に居間の真ん中で木名瀬くんが自慰行為をしました

あとは静かになる筈だったんです

「ギャアー!!!ガタガタターーーーン !!!!!!」

すごい音が鳴り響きました

何事かと思いリビングに向かうと、食堂から学くんが走ってきました

食道を見ると、食器棚が倒され、きりん寮全ての食器が割れているようでした

(!!!!!!!!!!!!!!!)

私は電話で隣の女子寮職員に応援を求めました

直ぐに駆け付けてくれた職員は

「あー学くんね?ぁ―――最近やってなかったのに!学くん!学くん!(様子を見に行く)落ち着いてるようだから、そっとしておきましょ。ざっと片付けておけばいいわよ。そんなに気にしないで」

とたちまち片付けをしてくれました

(私のせいだ…よく考えもしないで学くんを興奮させたから…私のせいだ)

これが私の最後の夜勤でした

 

それから数日して、私は退職しました

 

学くん食器全滅事件は特にお咎めもなく

「だぁから安い食器で良かったんだよ!予算はとってあるぜ!」

となぜかAさんは得意げでした

挨拶しなくていいと言われたので、私はみんなに特別な挨拶はしませんでした

 

職員一同からいただいた花束を持って、私は帰りました

いつものようにほとんどの入寮者が私を見送りました

いつもはいない、木名瀬くんと学くんも庭に出てさりげなく私を見ていました

(4月の頃の見送りは6人くらいだったな)

私は手を振ってくれる人に手を振り返しながら

(泣いたりするな馬鹿!お前はここを捨てていくんだろう?)

と思っていました。

 

山は綺麗で、空気は澄んでいました

夕焼けの空が、みんなの楽しそうな表情を照らしていました

「おねーちゃーんーおねーちゃーーん」

という翔ちゃんの声が、どこまでも私の背中をついてきました

 

みんなからは顔が見えなくなった頃、私は大量の涙がごうごうと流れて出ていました

(みんないい人だったな…みんな私を信用してくれて、好いてくれて…私もみんなが大好きだったな…)

 

車に乗り込み、施設を振り返った時に思いました

ここは桃源郷だったんだと

私は支援しているつもりで、みんなに愛されていただけなんだと

こんなに真っ直ぐで綺麗な感情を、私のような人間に向けてくれた…

ここは桃源郷だったんだな、そう思いました

 

 

長くなりましたが、これが桃源郷の話です

で何が言いたいかというと、私は桃源郷にいたことがあるから、今も福祉が大好きなんです

あの日のみんなに、きっともう私を忘れちゃったみんなとしたたくさんの楽しい思い出があって、今度はこれから出会う人に少しはお返しが出来る人間になりたくて勉強してきたんです

 

あれから約15年

資格はたくさん取りました

どうなんだろう、こうやって書いてみると当時の私の方が頑張ってたような気もしなくもない…

ぐちゃぐちゃ言わないで仕事しなくちゃね

みんなが見送ってくれたんだから仕事しなくちゃいけないですね

今そう思いました

やめません

仕事は辞めるかもしれないけど、福祉は止めません

がんばります

がんばるしかないですよね

 

桃源郷といえなくても、ミニ桃源郷を私の手で作ってみたいな、そんな風に思っています

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高級ペットとしての性

今日は私が考える女という性について書きます

男女関わらず人によりイラっとくる内容です

基本的に私はかなり恵まれているんです

そんなことわかってます

でも生きづらい

そういう話を書きます

ここまで読んでイラっときた人はもう読まないでください

あくまで私と言う人間の考える女性性について書いていきます

 

 

私は父親に偏執的な溺愛を受けて育ちました

「可愛い」という言葉を浴びせられながら、父親の膝の中で、父親が他者に与える暴力から避難していました

家で頻繁に催された宴会でも、私は「可愛い」役でしたが、父親に「過剰な愛嬌やお酌」は禁止されていました

「ウチのJ子は酌女じゃねえからな」

が口癖でした

私は父親の庇護の元、ふんぞりかえっていました

 

たいして可愛いわけではなく、地味で大人しく、町内の子供の中では可愛いと言われるレベルなだけですが、生きるというサバイバルの中では可愛いは私の武器でした

自分が可愛いという認知は私をうっとりとさせてくれましたし、他者にも有効な力を持つことを幼い頃から私は知っていました

父親は私にその他の能力は全く求めませんでしたし、私もほややんとしていられたら不満はありませんでしたが、私に自我が芽生えると、私の自我は父親の邪魔でしかないようでした

買った漫画は破り捨てる、借りた漫画は庭で燃やす、成績は伸ばさないよう塾には行かせないetc…

まぁいい、まぁいいんです

図書室も図書館もありましたし、貪るように本を読みましたから…

 

 そして、家の外では高校卒業までの間に、小学生=担任から放課後残されて下着に手を入れられる、中学生=体育教師から2人きりにされ目の前でブラジャーを外すように怒鳴られる、同級生が家の周りを徘徊する、高校生=同級生家の周り徘徊、盗撮される、アイツは歳上としか付き合わないと噂される、本屋でスカートの中に頭を突っ込まれる、などのことがありました

 

しかし、やはりある一定の外見を持つことをやめようとは思いませんでした

税金のようなものだと思ってたんです

「女の子で得をした分の税金」

私の高校の成績はオール5です

担任の先生が他の教科の先生にかけあって成績を変えました

私の地理の成績は点数的には赤点でしたが、1番前の席で、みんなが問題を解く間、先生とお話しをすることで5になりました

 

でも高校を卒業する時、私の進路はありませんでした

私は大学進学を希望してましたし親も了解していたはずが、大学進学も無料の予備校も就職も、父親が全部潰しました

私は身体を壊し歩けなくなり、激痩せしていきましたが、どうしようもなく、結局卒業した公立高校の事務員の仕事を先生が急遽用意しました

先生は夜8時に母に電話をかけ「父親に相談せず今すぐ返事をしろ」と言ってくれました

たぶん先生方は私の家庭状況を知っていたのでしょう

父親が私を家に閉じ込めようとしていることは、当たり前の秘密だったのでしょう

「学校で働いてる間に大学受験してもいいし、就職先を決めてもいいから」

と今考えても有り難すぎる待遇をしてくれました

 

そのあと私はある会社の社長秘書兼総務という仕事にスカウトされ就職しました

コレも父親は潰そうとしましたが、父親の勤め先の関連企業だった為、なんだか分かりませんが「自分の力で就職させた」という謎の物語をつくり無理矢理納得させてたようでした

 

長くなりますね

私の人生全てにオンナはまつとわりついてきます

 

社長秘書は私にあっていました

そのあと某慈善団体の秘書を勤めますが、

①外に出して恥ずかしくない外見

②男に媚を売らない品格

③滲み出るマナーと教養

が必須アイテムだったと思います

それらは私が幼少期から父親に求められた「可愛い」にも通じているように感じました

 

そして私は会社でも謎の人気を持ちつつ、わけわからん26上の男と結婚します

父親から離れるには充分な威力を持った人でした

何しろ父にナイフを向けましたからね

学者と医者の家の息子でした

頭はバツグンによいサイコパスでした

 

そして私は彼のことを盲信したままボロボロになって行きます

 

宇多田ヒカルの歌「俺の彼女」の歌詞を引用します

《俺の彼女はそこそこ美人 愛想もいい

気の利く子だと仲間内でも評判だし

俺の彼女は趣味や仕事に干渉してこない

帰りが遅くなっても聞かない 細かいこと

あなたの隣にいるのは 私だけれど私じゃない

女はつらいよ 面倒と思われたくない

俺の彼女は済んだ話を蒸し返したりしない

クールな俺は敢えて聞かない 余計なこと

あなたの好みの強い女 演じるうちにタフになったけど いつまで続くの?狐と狸の化かし合い

本当に欲しいもの欲しがる勇気欲しい

最近思うのよ 抱き合う度に

カラダよりずっと奥に招きたい 

招きたい カラダよりもっと奥に触りたい触りたい 》

 

本当にこの通りでした

この歌は私がこの男性と離婚して10年くらいしての発売だと思いますが、この通りです

 

結婚だけではありません

 

私がずっと求められていた高級ペットとしての女性像だと思いました

 

バツグンの美女は要らないんです

従順で大人しく、そこそこ美人

間違っても不倫したり逃げ出したりしない

いつも飼い主を崇めるようなオンナ

 

私はその役が上手でした

今でもやろうと思えば上手です

いま非常事態が来て、やる必要があれば躊躇なくやるでしょう

 

私のオンナの部分は、私を生かしもし、私を傷つけもしました

私はオンナを嫌悪してます

でもオンナにすがってもいます

 

中年になればどうでも良くなるはずで、だいぶ薄れましたがゼロにはなりません

まだなってません

 

真剣に考えました

私はどうなりたいのか?

生きることが保証されたら、私はどんな性をいきたいのか?

 

私は私を好きになりたい

私が好きな私を探したい

 

46にもなって片腹痛いですが、私は自分を楽しむ時間を今まで持っていませんでした

 

だからいま、私は自分が好きな肉体を作っています

好きな歯、好きな肌、好きな服装

そう、自分に恋したナルシスのように、ひたすら自分に向き合って、自分とセックスしてるんです

 

昨日私はこんなツイートをしました

《女性である事は大好きです
でも女性だから身を守らなきゃいけなくて、早く結婚したり合間を開けず再婚したのは、素早く男性に守られることで様々な誘いや被害から自分を避難させる為でもありました

気がつけば中年で、女を謳歌した事もなく中年になり、たまに女を匂わせる自分に激しい嫌悪を覚えます

男性だったらこんな思いしてないだろうなと思いながら、社会的に男性にかけられた重圧に耐える自信はない
結局はアンビバレンツな自分を抱えたまま、おばあちゃんになるんだろうなと、まだ割り切れないまま生きていくと思います》

 

「二回も結婚して、十分オンナを謳歌してるじゃないですか?」

 

昨日そんなリプをもらいました

 

おまえに何がわかる?私の何が分かる?

 

わかりゃしないんです

私が他者を理解出来ないように、私のアンビバレンツな分裂した感情なんて、わかるわけがない

私の努力も苦しみも、わかるわけがない

 

私はずっとオンナです

オンナなまま、女を嫌悪したり利用したりしながら、ズルく生きていくのでしょう

 

少し前の日本なら、オンナは売られていたわけで

家畜よりましだと言われたらそれまでですが

いつか誰かのペットじゃない私になってみたいです

私が強くなればそうなれるような気もします

 

私は頑張ることは得意ですから、たぶん頑張ります

新しい私、ブランニュー自分

そんなこと言いながら死ぬんでしょうね

 

私は一生オンナという性と格闘していくしかない

だけどそれも人生です

 

何度か生き延びたこの命の先に、自分が統合する未来があることを軽めに祈ってます

 

※まとまらない長い話を最後まで読んでいただきありがとうございました

 

 

 

 

 

 

 

 

Twitter依存

私は3月からTwitterをはじめましたがすっかりTwitter依存になってしまいました。

理由は

①さみしくない

②褒められる

だと思います。

 

私は組織仕事が苦手で、傍目から見たら立派にこなしてるように見えるでしょうが、かなりストレスを溜めて仕事をしてました。

❶仕事出来ないAさんにイライラ

❷仕事出来ないAさんを注意しない上司にイライラ

❸仕事できない部署の仕事を丸っとこなしながらAさんに仕事教えてあげてと言われて爽やかに「ハイッ!」と答えて余計な仕事を増やしていく自分にイライラ

こんなループをどんどん加速させていくわけです。

 

だから組織仕事は辞められる状態になった時にやめて開業しました。

ある仕事は私が1人でやってたようなものなので外注が来ました。

仕事仲間は仕事が出来て周りの人望があついバウヲのみです。

 

ほうらパラダイス!

 

月に一度は旅行して、お金は儲からないけどストレスは無く、貯金も貯まっていくし、仕事の精度は上がるし依頼もくるし、私の信用もあがる!

 

だけどね、気がついたらね、バウヲと仕事しない日は独りぼっちなんです。

嫌なことはない、好きなことだけしてたらいい、だけど独り。

じんわりさみしい。だけど基本的に好き嫌いが激しいから誰でもいいわけでもない。

やること→試験勉強とか忙しい仕事とかあれば、1人になりたいですよ?

だけど通常はひま。

 

そこでTwitterをはじめたらハマってしまった。

みんな優しいし、嫌いな人は付き合わないし、褒めてくれるし、誰かいるし、Twitter

 

やばいですね。

 

やばいとしか言いようがないですね。

 

さっきまでバウヲにあえて怒られてました。

垢消ししようかと思ったけど、今のSNS依存の対応では違うでしょうとなり、私がどうしたらTwitterを離れられるか検討した結果、

①書く

②読む

③写真とか上げたくなったらバウヲに電話→どうしようもない時は日帰り温泉にいく

という結果になりました。

 

完全に離れることは難しい依存だし、うむむ。

洋裁も再開します。

 

夕方はTwitterします。

 

守られるかな…わかんないけど、とりあえずそうします。

 

ブログの感想くださいね。

 

さみしい人なんですよ。