J.B‘LIFE

J.Bの日々連想的なブログです

One more time one more chance

一面に広がる緑の中に白い絵の具を垂らしたようだった。9月29日、また夏の日差しが残る秋の初めだった。

小さな、今にも消えてしまいそうな白。

見失わないように、私は白に向かって走った。

 

「緑地公園に白い猫がいた」

ウオーキングから帰ってきた夫が興奮した様子で私に報告してきたのは9月28日だった。

「猫?コンビニのとこの猫じゃなくて?」

「ちがう!コンビニの野良猫家族は黒と茶虎でしょ?真っ白の猫!はじめ鷺かと思ったよ!ミャーって言って僕に甘えてきてさあ~~」

巨体の夫は動物が好きだが動物には嫌われるのでよほど嬉しかったのだろう。白い猫のことを子供の様に話した。

「ふうん。よかったね。可愛かった?」

「可愛かったけどさあ、大丈夫かなあ?あの猫~~~」

夫のとりとめのない話は半分聞き流し、その日まだウオーキングしていなかった私は緑地公園に行ってみることにした。

 

 暑い夏が和らぎ、過ごしやすくなっていた。緑地公園は遊具など何もない河川沿い1㎞にわたって遊歩道を整備した芝生の公園だ。

 この時まで私は猫に触ったことがなかった。目も爪も尖っていて、『ひっかかれたらどうしよう』『野良猫って不衛生なんだよね』と思っていた。一日1万歩あるくという自分に課したノルマと興味本位で公園に行っただけだった。

 

 公園の真ん中のベンチの下に、白い小さな生き物はいた。あっけないくらい無防備にそこにいた。両手で包み込めそうな白い物。そっと近づいた私を見上げると、逃げるでもなく座り込み、私が背中に触れても動かなかった。『触らせてくれた!』

 私は柔らかなその感触に取りつかれたようになった。怯えさせないように、逃げ出さないように、でも撫でたくて、そっと、そっと、私は手を伸ばした。小さな頭を上げた。猫は宝石のような碧い目をしていた。青くて清んだ眼で、白は心細そうに私を見た。

 10分もそうしていただろうか?緑地公園は地域のウオーキングコースになっている。『野良猫にエサをやるマナーの悪い人と思われるかもしれない』と周囲の目を気にして私はその場を離れた。

 しかしその時から私は白のことが頭から離れなくなった。家に帰っても家事をしても白のことが心配だった。『ご飯は食べているんだろうか?』ネットで検索し、野良猫にエサをやる功罪について調べた。(責任が持てないならエサをやるべきではない。どうしてもやりたいならちゃんと皿に入れて水も用意して片付けて帰る事)たくさんの意見があったが、私は自分を抑えられなかった。

 身体中火の玉みたいになった私は夫に

「今から白にご飯あげてくるから!今日だけだから!公園を汚したりしないから!」

一方的に宣言した。

「止めた方がいいよ~~」

夫の言葉は聞かずにコンビニで猫のエサを買いこみ、私はまた公園に駆け込んだ。あっけないくらい簡単に白は私に気付き近寄ってきたので、私は白を抱きかかえベンチまで連れていき、体制を整えてから二つの皿を並べエサと水を入れた。白は小さな体で躊躇なくガツガツと全てを平らげた。その間にも数人の人が通りすがり、気の小さな私はそのたびに縮こまっていた。

 悪いことをしているんじゃないかという気持ちより、白にご飯を食べさせたい欲求が勝っていた。白は驚くほどよく食べ、嬉しそうに青い瞳を私に向けた。

「明日も来るからね」

 

 その夜はずっと猫について検索し、白が無事かどうかを考えていた。保護猫について、桜猫について、地域猫にするには等調べながら、翌日の仕事の打ち合わせに電話をしてきた共同経営者のバウ子にも、仕事の話そっちのけで白のついてうなされた様に話した。

 恋だったと思う。恋愛をしてもこんな風になったことはなかった。我を忘れた。全身全霊持っていかれた。白のことしか考えられなかった。白のことしか考えられないのに、どうしたらいいのか全然わからなかった。もし拾って飼うとしたら、お金も時間もかかる。私の家は収集したアンティーク家具だらけで、夫は猫アレルギーだ。趣味の旅行も行けなくなるだろう。恋焦がれながらも自分の生活を案じた。どうしたらいいか分からないままだった。

 

 29日は大きな仕事が終わった確認の為、企業を訪問する約束になっていた。共同経営者のバウ子が迎えに来ても、私は

「白に会ってから!白がお腹が空いてるかもしれないから!白が!」

「約束でしょ!相手方はJ子に会いたいんでしょ!仕事終わったらね」

とあっさり連行されたが、仕事が終わると私とバウ子は緑地公園に直行した。私は動物と暮らしたことはないが、バウ子は真っ白な犬と16年間生活し、4年前に亡くしたところだった。

「どこにいるの?」

公園の駐車場に車を停め、私達は白を探した。全長1キロある公園を往復し

「いないんじゃない?」

バウ子があきらめかけた時、昨日よりずっと中央よりのガサ藪の中から白が出てきた。

「しろ!」

「小さいな。子猫だね」

バウ子は全身で覆いかぶさるように白の側にかかんだ。私が用意してきたエサと水を渡すと、手際よく皿に移し替え白に与え始めた。何人も私たちの側を通り過ぎていく。

「飼い猫だったのかな?大人しい子だね」

日頃から気の優しく人目を気にするバウ子が、人が変わったように堂々と白にエサを与え続けた。

 バウ子も私も無言だった。ジッと白の側で、食べ終わるのを見ていた。

「獣医に連れていこう」

いつも私の指示待ちのバウ子が口を開いた。

「え?連れていくの?これからどうするの?」

「こうしていても仕方ないじゃない。どうにかしなきゃいけないんだし」

私はほっとしたような、負けたような気がした。

「じゃあ待ってて!いまキャリーバック買ってくるから」

私はバウ子の返事を待たなかったし、バウ子も白に覆いかぶさったままだった。私はそのままペットショップまで走った。『バウ子がこんなに強く言うなら、バウ子が飼ってくれるかもしれない。バウ子が飼ってくれれば安心だし、私の生活も冒されない』私はそんな浅知恵を脳裏によぎらせながら、キャリーバックを買うためにペットショップに駆け込んだ。

 

 

 その後は怒涛のように過ぎた。事前に調べておいた獣医に駆け込み、白は診察を受け、ノミ取りワクチンを打ち、エイズ検査もした。その結果分かったことは、白が女の子で2歳くらいで、経産婦だということだった。

 私とバウ子は話し合い、結局バウ子が

「しょうがないじゃない。ウチに連れて帰るよ」

と言ってくれたため、私達は当座必要そうなもの、ゲージやトイレやエサなどをホームセンターで一気に買い込み、バウ子は家族の許可も得ないまま白を自宅に連れ帰った。

 バウ子の家族はビックリしたようだったがあっさりと白を家族として迎え入れてくれた。事の経緯を知った東京の私の娘が「これからたくさんの幸せがありますように!名前は大福です」と勝手に命名し、白は大福となった。

 それからは毎日、バウ子から写真や動画をラインしてもらっている。

 白はバウ子の家中を歩き回り、みんなに猫可愛がりされ、身体は大きく毛は長くなり、どんどん大福になっていった。

 今は白だったころの面影もない。

でも思う。今日も冬の緑地公園を歩きながら、ベンチに座りながら思った。

 バウ子に出来て私に出来なかったこと。こんなに白を恋焦がれているのに、なぜ私は白と生きる決心を出来なかったのかということを。バウ子も白も大きな幸福を手に入れたのに、弱虫なまま保身をした私は逃した。

 幸せを手に入れるのは、勇気がいることで、その咄嗟の判断を私は出来なかった。

 大福もバウ子もバウ子の家族も私も私の夫も幸せだ。でも私は緑地公園に行く度に白を探している。白が寒くないといいな、白が幸せだといいなと思いながら、ああもうここに白はいないんだと、公園を歩くたびに思っている。

カウンセリングにインスパイアされた私はマチルダとフィーチャリングして人生をRPGする ②

ロナルド・ダールの「マチルダは小さな大天才」は(原題:Matilda)は、1988年出版されたイギリスの作家ロアルド・ダールによる児童文学作品だ

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 幼い少女マチルダは、文学と数学に対する天才的な頭脳を持っていたが、両親はそんな彼女を馬鹿扱いし、学校にも行かせず、ことあるごとに怒鳴り散らして辛く当たるばかりだった。マチルダは負けじと泣き寝入りすることなく、いたずらを繰り返しながら、抑圧された日々の暮らしに耐え続ける日々を送っていた。

やがて6歳になったマチルダは、小学校に遅れて入学する。しかし、そこは極端な子供嫌いで暴力を用いて子供たちを支配する鬼のような女校長ミス・トランチブルが牛耳る地獄のような場所であった。

チルダのクラスの受け持ちである女性教師ミス・ハニーは、マチルダの天才ぶりに驚愕し、より上級のクラスに進級させようとするが、トランチブル校長に拒否され、マチルダの両親に娘の才能を伝えようとするが、結局とりあってもらえない。そんな中でも2人は絆を深め、生徒と教師の立場を越えて急速に親しくなる。

校長が授業を担当する受け持ちの日、マチルダの友達が、トランチブル校長の水差しにイモリを入れるが、マチルダが犯人と疑われてしまう。いわれのない冤罪に怒ったマチルダは、予期せず超能力を発揮してイモリの入ったグラスを倒して、校長に一泡吹かせる。

授業が終わった直後、そのことをミス・ハニーに打ち明けたマチルダは彼女の家に招待され、ミス・ハニーが意地悪な叔母に虐待を受けながら育った過去を明かされる。彼女の叔母は実はトランチブル校長であり、ミス・ハニーの父を死に追いやり、遺された彼女の家と財産を奪っていた。ミス・ハニーを救うため、マチルダは自身の超能力を訓練し、ある日校長をショックのあまり気絶させ、校長は翌日失踪してしまう。

その後、マチルダは最上級クラスに移される。それと同時に、彼女から超能力は失われる。

以来、マチルダはミス・ハニーの自宅を頻繁に訪れるようになり、楽しい日々を送るが、父親の中古偽装車販売が警察にばれたために、一家そろって海外へ高飛びすることになってしまう。ミス・ハニーと共にいたいと訴えるマチルダに対し、両親は何の関心も持たずにマチルダをおいて出て行く。

こうして、マチルダはミス・ハニーと共に幸せに暮らすのであった。

(一部ウイキペディアより引用)

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まあざっとこんな内容の児童書だ。

私は大人になってからこの本を読んだ。元夫の弟から「絵本のプレゼント」で毎月ランダムに送られてくる本の中にあったのだ。

「面白い本だな」「続編はないのかな」

そんな感想を持ちながら、うっすらとあらすじが記憶に残っていた。

 

そこまで思い入れのある本ではなかった。

しかし号泣しながらカウンセリングを終えた私が思ったのは先ずマチルダのことで、

「なぜマチルダは親に未練がないのか?」

「どうしてあっさり親と別れ、ミス・ハニーとの暮らしを選べたのか?」

という事だった。

 

私は今、素晴らしい仲間と家族になり、幸せに暮らしている。

私が定位家族にしたことは正しいことだとも思っている。

それでも頭のどこかで

(父の重い通りになってやりたい)

(兄や姉とどうやったら協力し合えるのだろうか?)

(私が彼らを辛い目にあわせているのではないか?)

との思いが消えない。

ムダな事、何度も繰り返しては辛い思いをしてきた事ばかりなのに、また父にすりよってみたくなる。

今度は大丈夫じゃないかという思いさえ浮かばないほど失望してきたのに、また期待したくなる。

 

子供の頃はずっと、父や母に自分の言葉を「わかってほしい」と思ってきた。

私が考えることや話すことを聞いてほしい、理解してほしいと思っていた。

でもそれはとっくに無理だと分かっている。

何度も伝えようともがき、そのたびに宇宙人を見るような眼で見られてきた。

分かりあえたことが一度もないのに、どうしてより硬直した関係性と老化した彼らと分かり合えるのか?

分かり合えるはずはないと重々承知していながら47歳の私は未練や罪悪感と闘っているのに、記憶の中のマチルダは、その部分で悩んでいる様子がなかった。

 

「マチルダは親の愛を求めたり、期待したり、失望したりしなかったのかな?」

カウンセリングから3日後、私は「マチルダは小さな大天才」を真剣に読み返した。

相変わらず魅力的なマチルダは、冷静に家族を観察し、大量の本を読み、彼女の人権を侵されたときは怒り、怒りを自分の中で鎮めるためにイタズラをしていた。

彼女のイタズラや読書は、彼女の精神状態を健康なまま保つ作用があったんだと思う。

彼女がやりすぎとも見える悪戯をしなければ、他者に怒りをぶつけず、自分に向かわせたら、彼女は精神を病んでしまっただろう。

大量の本に支えられ、自分の考えや感性は異常ではないと信じることができなければ、彼女は生きていけなかっただろう。

図書館に一人通うマチルダに、子供の頃の自分が重なった。

幼少期、うまく話せない私は一人で家中の本を黙って読んでいた。休日は一人で知り合いのいない教会学校の図書室に通った。小学生の時は図書館の本をむさぼり読んだ。友人もいなかったし、父に怒られない娯楽は読書だけだった。

残念ながら私は賢い子供ではなく、読書で知識を身に着けたわけではない。

私は本の世界に逃げ込んでいたのだ。

怒鳴り声や家族からのからかいから本の世界に飛び込めば、あっという間に楽しくて幸せな世界が待っていた。『はだしのゲン』でも『渡辺淳一』でも『子供のしつけ』が書いてある本でもよかった。何でも面白かった。

チルダは大人以上の知識と教養と味方を、私は違う世界があるという事を、本から吸収した。

 

読み返してみればマチルダも「お父さんも本を読んだらいいのに」と考えたり、「自分の両親が、正直で物分かりがよく尊敬できて頭がよかったら、どんなにいいだろう」といつもそう思っていた。

絶望しながらも知性が彼女を支え、論理のない世界に迷い込ませなかった。

チルダが迷わなかったのは知性を身に着けていたからだと思う。

 

カウンセリング後、私はしばらくマチルダと旅をした。

いつもマチルダのことを考えていた。

そしてふいに浮かんだのは、「しょうがない」という言葉だった。

 

両親のもとに生まれたのも、こうなったのも仕方がないのだ。

たとえるならば、このゲームは出発から理不尽だった。

 

他のプレイヤーが、鍋の蓋と棍棒と革の服を与えられているのに、私達は腰布だけ。

最初から上級者レベルのダンジョンに放り込まれたようなもの、多くの人は最期のラスボスに行きつかずにゲームオーバー。

MP・HPはどんどんあがるけれど、ゲーム途中で死ぬ確率の方が高い。

私やマチルダは抜け出してストーリーをクリアした。

そして最終的には強いプレイヤーになった。多くの人が挫折したダンジョンをクリアした。

だから振り返れる。

そして振り返りながら私は

「みんなずるい」

「どうして私は普通の装備を与えられなかったのか?」

「どうしてみんなが進むコースを選べなかったのか?」

と不平を言い続けている。

それでも、じゃあ元に戻って普通のダンジョンしたら今の私のHPが持てるかと言えばNO、それでもやり直すかと言われたらNOのなのに。

 

カウンセリング後しばらくしてから、私は夢をみた。

夢の中には背中に大きく穴の開いたセーターを着た、落ちぶれた父がいた。

もう私は悲しくはあったけれど心は乱れなかった。

乱れはしなかったが「私は欲しくない子供だったの?」と父に聞いていた。

その問いかけには父は答えず消え、父がいた場所には小さな小箱が置いてあった。

その中には小さなノートの切れ端のような紙があり、恐る恐る手に取ると

「あいしてた?」

と幼いころの私の文字が書いてあった。

 

冒険の最後にたどり着いた箱に中には、認めたくない、忘れていたはずの私の叫びが入っていた。

私はずっと愛されたくて、でもそれはとうに諦めていた。

だって小学生の頃にはとっくにわかっていたのだ。

私の愛と彼らの愛が、愛の概念が全く違うという事を。

父が差し出す愛は、お金を渡すことや侍従関係を意味し、私が欲しい愛は理解や労りだったのだから。

「欲しかったんだな…」

私は今だに両親に愛されてみたくて、でも無理だと知っていて、いまの私が今の住む世界に引き込めば父も変わるんじゃないかとか思っていて、でもそれは立場を変えた支配であって、結局は生きる場所が違う種類の人間同士なのだと…。

どうしてそんな関係なのに家族として生まれたかは分からなくて、出来れば何か意味を見出したかったけれどそんなものはなくて、ただこうなったという結果があるだけで。

私は自分の人生が不公平だと怒り、今の自分は強すぎるんじゃないかと罪悪感に苛まれていたけれど、そういう冒険のような人生しか選べなかっただけであり。

 

もしかしたらそれを宿命と呼ぶのかもしれないけれど、ずっと求めていないフリをしていた『もらえない愛を求めていたこと』を認めたら、すこし視界が開けたような気がする。

 

もうこのゲームに大きなダンジョンは残されてないと思う。

これ以上、私が欲しい愛をもらえないことを嘆いていても仕方ない。

仕方がなかったんだと思う。

私には、生まれた意味も価値も役割も分からないけれど、生きてここにいる。

幸せに生きているのだから、もうそれでいい。

 

父や母が死んだり、遺産相続があったり、小さなダンジョンは残されているけれど、もう高得点でクリアしなくてもいい。

充分に悲しんで、次のゲームに取りかかろうと思うから。

 

私もマチルダも、これからの人生が始まるのだから。

 

カウンセリングにインスパイアされた私はマチルダとフィーチャリングして人生をRPGする ①

気になって仕方なかった。

なぜ私はあの父と母のもとに生まれたのか?

あの家で私は何を目的として生活すればよかったのか?

なぜ、もし神様がいるのなら、どうしてあのメンバーと家族にしたのか?

私が生まれた意味は何なのか? 

 

私は1973年関東のとある工場外に生まれた。工場の現場主任の父と、専業主婦の母。9歳上の兄、5歳上の姉の5人家族だ。

喧嘩も多いけど笑いの絶えないにぎやかな家。サザエさん家のような家族。

他の家庭を知らない私がそう思っていたのはいつ頃までだったろうか?

 

神主だった父親を7歳の頃亡くした父は、祖母が柔剣道場の管理人という職を得た関係上、道場で育った。

三男である父は定時制高校を卒業後、すぐ工場で働で働き、四男五男の学費を稼ぎ大学まで行かせた。身長は160センチで体重は75キロくらいある身体は筋肉質で、父は剣道と柔道の師範だった。

 

父は私が産まれた頃、母の実家からの資金援助で家を建てた。

母の実家は資産家だったが、父はその話をされるのを嫌っていた。

私の育ったその家には、床の間に刀が3本と短刀数本が飾ってあった。

父はオーダーメイドのスーツとリーガルの靴しか履かなかった。

工場街での父のあだ名は『校長先生』。

温和そうな笑顔とテノールの落ち着いた声。かと言えば不良上がりの若者も面倒をみて手なずけ、工場の一翼にしてしまう手腕で地域の信頼を得ていた。

規則正しく7時15分に家を出て18時に帰ってくる父は、家に帰ると必ずお酒を飲んだ。

居間の一番中央には『父の座椅子』という席があり、家に居る時の父はそこから動かなかった。

「おい淑子!」「何やってんだ!」「ここ拭け!」「バカが!」

1分に1度のペースで母を怒鳴りつけ、母は独楽鼠のように動き続ける。母はいつも必死で命令に従っていて、それが日常だった。

子供達の暮らしも父の機嫌で簡単に変わる。

静かにすること、父の前でテレビを見たいと言わないこと、父の木の触る話をしないこと、でも自室に閉じこもったりしないこと…ある一定の法則はあるが、それらを守っていたとしても父の状態によってはどうにもならない日々。

酔った父は、怒鳴る。

怒鳴るが、人間不思議なもので、たとえ子供であっても、何度繰り返されていても納得いかないものに屈服したと思われたくないものなのだ。なので、兄や姉は平気を装う。そして子供や母が心底怖がった表情をしない場合、父は「バカにされた」と受け取る。

そこからは、阿鼻叫喚だ。

子供を正座させ本物の刀を振り下ろし寸止めする、それを涙目で他の家族は見つめる。

何かお祝いの席・例えばクリスマスとか誕生日とかの場合は、そもそも浮かれている家族の様子が気に障り、ごちそうが乗ったテーブルはひっくり返される。

振り下ろされる刀、怒号、成長した兄と父の殴り合い、割れるガラス…

私は歳の離れた末子だったのでそれをずっと見てきた。

私に対しても、びんたや折檻はもちろんあった。暗い物置に閉じ込められることも普通にあった。

小学生の頃、ささやかな楽しみであった友人に漫画を借りる行為は父を激怒させ、借りた漫画は庭で燃やされた。

父は私が父以外のモノに興味を抱いたり楽しみを見出すことを病的に嫌った。

私が殴られ蹴られ、刃物を喉元に突きつけられるようになったのは、あの家を出ようとし始めた19の頃からだ。

それでも振り払うように私はあの家を出た。

同じ市内で働いていた為、父の知人がやって来て、父が憔悴しきって夜も眠れないことや頭が真っ白の白髪になってしまったことを伝えに来た。

それでも私は家には戻らず、結婚し子供を産んだ。

あの家に戻ったとして、何が待っていたというのだろう?

笑った顔が可愛かったから生意気だと殴られ、部屋にコーヒーを運ぼうとすると「自分だけ飲む気か!」と怒鳴られ、「誰の金で食ってんだ!」と言われるのが嫌でお金は家に入れ食事は自分で買ってきた食材で作り、それだけしても毎日怒鳴られ続ける生活に何があるというのだろう?

20歳で家を出た私は、それ以降あの家に泊まったことはない。

子供が小さい頃は月に1度、子供が学校に上がってからは年に6回程度、手土産をもって顔を見せに行っていた。

兄や姉も早くに結婚し、家を出ていた。

兄は結婚5年後から兄嫁と実家が険悪になり、両親とは絶縁状態だった。

姉は結婚離婚を繰り返し、子供を実家に預けっぱなしにしたりもしていたが、諍いを繰り返し、ここ10年は絶縁状態だった。

それでもどうにか、私は実家に行っていたし、関係も距離を保ちながらどうにか続けていた。訪問時には大量の寿司やお酒を携え、「おじいちゃん、おばあちゃん」といつまでもなつく可愛い孫2人も同行した。

「このままこの関係が続けば…」

そう案じていたが、2018年に恐れていた事態が起こった。

母の認知症が進行し、徐々に父の母に対する暴力がエスカレートしていったのだ。

そのたびに助言し、忠告し、段階的に第三者を介入させていったが暴力は止まらなかった。そればかりか、周りが注目し集まってくることで暴力が強化されて行ってるようだった。地域包括支援センター、市役所高齢福祉課、最後は母自身が警察に通報し、両親は分離させるようにとを警察から告げられた。

そして母を介護施設に入所させたくない兄や、関わらないのに私に暴言だけ吐く姉の希望に沿い、私が母の成年後見人申し立てを2020年1月に行い、6月15日に母は被後見人になった。母の後見人は裁判所に一任し、弁護士が従事することになった。

2018年12月、父が事件を起こしてから私は母の通帳印の受け渡しで2019年1月4日に父にあったのを最後に、私は父に会っていない。

父の葬式にも兄姉との関係で出ないつもりだ。

兄姉との連絡もとるつもりはない。

彼らに関わる時、私は主治医から処方された抗不安薬を飲む。

それでも動悸もその場面の苦しさもぬぐい切れない。

懸命に両親のために動いては非難され、「もっと金出せ、俺達を敬え、両親の家に住み込め、自分の子どもの就職の世話をしろ、借金の保証人になれ」と要求はエスカレートするばかりなのだ。

 

だから私は母以外の定位家族との関係を切った。

私に不安しかもたらさない関係を切った。

私にそれができたのは、それらが出来る知識と業務上の経験があったからだ。

 

私は社会福祉士精神保健福祉士、公認心理士だ。

開業して家族関係の再構築の相談を受けてもいる。成年後見人として活動もしている。

その関係で、数えたことはないが、1000ケースは越える家族に関わり、何度も何度も家族について法や制度を使って介入してきたのだ。そこに感情がなかったとは言わないが、自分のことではなかったのは確かだ。自分のことではないからこそ専門性を発揮してきた。

今回も、社会福祉的介入は見事だと自分でも思う。

これだけ迅速に、的確に家族システムに切り込めたのは、私がプロだからに他ならない。

この先起こりそうな揉め事もシュミレーションは完璧で、私はそのための法的処置も難なくとれる。

だけどなぜだろう。

私が月数回面会し様子を見てきた、綺麗な施設でかわいがられている母のことはいいのだ。

だけれども、私の夢には「可哀想な父」「落ちぶれた父」が半泣きの表情で現れる。

道端にいる険しい顔の歳老いた男性は父に見える。

(父は兄にもまた絶縁されたと聞いている…どうやって暮らしているんだろうか?)

(父から頼まれれば…兄や姉と関わらないと約束してくれたら、私の近くに呼び寄せて世話をしてやれるんじゃないだろうか?)

(探偵を雇って父の様子を調べさせたい…)

成年後見人が選任され、母の身の安全が一生確保されたころから、私の父へ対する思いは執着のような感情をのぞかせ、私の脳裏を占拠した。

私の子ども達は東京で働き、自分で生活している。子育ても無事終わった。

私の仕事も順調で、依頼される仕事を半分は断るような状況で、かつプレッシャーもない。

悩みが無くなったからなのだろうか?

私は暇さえあれば両親とのことを考え続けるようになったが、それは答えの出ない作業で、私を苦しめた。

「しなければならないことを私はした。だけれども…なぜ私はあの父と母のもとに生まれたのか?あの家で私は何を目的として生活すればよかったのか?なぜ、もし神様がいるのなら、どうしてあのメンバーと家族にしたのか?私が生まれた意味は何なのか? 」

 

7月、私はカウンセリングを受けた。

私は自分の事務所でも心にまつわるカウンセリングを提供しているのに、私自身のカウンセリングを受けるのは初めてと言ってよい状況だった。

 

1時間半、柔和でありながら的確な相槌と質問を投げてくれるカウンセラーを前に、気が付けばゴウゴウと泣きながらグチャグチャと1時間半話し続けた。

「たくさん話したいことがあふれていたのね」

「今がその時だったのね」

「どうしてあなたはそうならなかったの?」

「書くことはどんな意味があったの?」

自分が話したことを残念ながら正確には覚えていない。

だけどカウンセラーからそう問われたことは覚えていた。

(どうして?どうして私はそうならなかったんだろう…)

 

カウンセリングからの帰り道、自分に問いかけながら頭に浮かんでいたのはロナルド・ダールの「マチルダは小さな大天才」という本だった。

なんでもない日々

近ごろ私はひまである

 

つい先月までは時間があるとマスクを縫い袋詰めをし納品していました

仕事とマスク製造とご飯つくり、何が何やらわからないまま880枚のマスクを縫いうりさばいたわけです

マスク製造というのは、型取り→下縫い→本縫い→マスクゴム切り→マスクゴム通し→ラッピング→シール貼り→値段貼り→納品書書き→使用説明書書き→領収書書き、という一連の作業を指します

 

製造当初は「マスクが作れる幸せ♡」「マスクにまつわる思い出想起☆」みたいな甘さがあったのですが、本格的に事業になるにつれそんな余裕はなくなりました

 

「納品まだ⁈」

「縫える人Jさん1人なの⁈」

 

とわけわからんお叱りを受けつつぺこぺこ謝りつつ、朝から晩まで作業部屋にこもりマスクを作り続けたわけです

2月から5月末までの4カ月間、最初は1日5枚くらいづつ、最後は30枚くらいづつ縫いました

2月から4月半ばまでは私一人で、4月半ばからはバイトも雇い作りました

「おにぎり🍙たべたくて1年働かせられるおおかみみたい…」

5月の頃、時間に追われながらマスクを縫う脳裏には小さな頃読んだ絵本『おにぎり ぱくりん  おいしいおにぎりをたべるには』がずーっとずーっと浮かんでいました

 

いつまでもいつまでも続く細かな作業

これで終わり?と思ってもまだまだ続く工程

仕事として販路が増え関わる人も増えると、仕入れの量も製造量も増え、売り上げも増えるけど材料費も人件費も増える…から、結局わたしの手元に残るお金は、増えた売り上げよりストレスの足しにもならないくらいに感じたりもして…

マスク製造の切り上げ時も観察していたので、まあまあの業績でまた小さく趣味程度に収まりつつありますが…

 

単細胞の私はホッとしつつ、はたと我にかえり

「ひま」

とむきあっているのです

 

こんなにひまなこと人生初

「こんなのはじめて…」

 

何しろ、定期的な仕事が週3日しかない

そのうち2日は自分の事務所で行う仕事の日

コレはほとんど趣味みたいなもので、仕事感覚ではなくひたすらインタレスティング

アルバイトは週1日6時間+月1日6時+月2日2時間+2ヶ月1回2時間+月2回2時間程度の講演講話

月2回の仕事はリモートになったので家でお電話してればよろしいとなり、だいたい家にいる

 

自粛しなきゃいけないからいいっちゃいいけど、ひま

世間が自粛生活終わっても、ひま

1回のアルバイト仕事時間も2時間くらいしかしないから、ひま

だけどこれでフルタイムくらいのお金になるし、お金の使い道ないし、お金もらうために働いてるわけでアカデミックに研究したいとか思ってないし、組織に属したいとか思ってないというか無理だからこういう風に働けるように選択し頑張ってきたわけで、しかしながらそれが出来るようになったなったら驚くほど、ひま

 

自分で望んだ形なのに

自分で作り上げた理想の生活なのに

どうしていいかわからない

わからないわけです

 

で、小金を集めたり、資格を収集したり、過集中したりしてないと生きてる実感がない私は、何が何やら、今までたくさん仕事を断ってたくせにヒマを埋めるために仕事を増やそうとしたりしながらも全然思うように進まず、キーーーーーー‼︎とヒステリーを起こしながら今を生きてます

 

生きてますけどね、今してるのはアルバイトも含めて嫌いじゃない・好きな仕事なわけです

これがね、慌てて何か仕事に飛びついてココロのスキマを埋めてもですね、また「おにぎり食べたいおおかみみたいに虚しい…」「私はこんなことをするために生まれてきたわけじゃナイ!」とかわめきだすのもありありと目に浮かぶわけです

 

じゃあどうするか?

筋トレでしょ!

するしかないでしょ!

今でしょ!

 

そんな毎日デス

 

思い出したくないけれど忘れられない日のこと ~東日本大震災の日~

子供の声がしない

私は自宅2階の小さな図書室でマスクを縫いながら、小窓から校舎を見る

人気のない学校、張り出された廊下の書道、鳴らないチャイム

 

思い出しそうな光景を、私は脳裏から追い払う

「これでマスクを縫うのは終わりにしよう」

そう思いつつ、2月から始まったマスクを縫う行為は3月になった今も続いている

 

こんなにマスクを縫うなんて予想しなかった

ほんの小さな楽しみのつもりで始めたマスク作り

近所の手芸店が2月から会員には65パーセントオフセールを始めた

私はいつもならネットの激安店「布んちゅ」か「トマト館」で10メートル単位でダブルガーゼの布を買っているから、地元の手芸店は利用しないのだが、ちょっとしたマスクを縫うにはちょうどいい価格設定だった

「手持ちの端切れの布も使えるからいいかも」

そんな気軽な気持ちで、小学校を眺めながら、暇さえあれば私はマスクを縫っていた

 

私の家の前は小学校がある

10年前、結婚と同時に住み始めた家だ

家の周りは三方道路に囲まれていて、後方に一軒家がある

南側には小学校

いつも賑やかで、昼間は子供の声が響いていて

 

今はとても静かで、この静けさは押し込めた記憶を呼び覚ます

その記憶は私が怯えるものであり、今後整理するつもりもないものだ

 

忘れたい、でも一生忘れられない光景

 

それなのに、一日一日と記憶が私をノックする回数が増えていく

 

2月上旬には私は近所の手芸店で格安のダブルガーゼを漁っていた

2月中旬になるとマスクゴムが手芸店からも100円ショップからも消えた

2月下旬には近所の手芸店から無地のガーゼ生地が無くなった

3月頭にはネットでも無地のガーゼ生地は買えなくなった

そして昨日、近所の手芸店にはダブルガーゼ生地がなかった

 

私はテレビをほとんど見ないが、私の周りからガーゼ生地が無くなるたびにコロナウイルスが私の世界を侵食していくのを感じた

マスクゴムが買えなくなるまでは予想していた

無地の生地が人気が出ることも予想していて、先手先手で必要な物品を買い進めていた

でもガーゼが無くなるなんて、思いもよらなかった

 

もう、楽しい気分でマスクを縫うことはない

「どこまでいくのだろう」

私の予想を超えて、世界は混乱していく

 

小学校から音が消えることはもうないと思っていたのに

小学校から子供の姿が無くなることは、9年前だけでたくさんだったのに

 

「ああ、あれも3月だったんだな…」

 

私は9年前の3月を静かに思い出す

 

9年前の2011年3月11日、私は家から車で5分ほどの距離にある市役所にいた

当時の私は結婚を機にハードな管理職を辞し、市役所の障害福祉課の嘱託職員として働いていた

週に4日、自分で好きにスケジュール調整していい仕事はとてもやりがいがあって面白かったし、時間も好きに使えた

 

その日は2時間有給をとって歯医者でホワイトニングをする予定だった

「あと30分仕事をすればいい」

古い市役所の1階で片付けやすい事務仕事をしているときだった

 

軽く揺れた

誰も何も言わなかった

そしてまた揺れた

新卒の南くんがパソコンにかぶさるような体制を取ったのが見えた

そしてまた、長い長い揺れが来た

「つくえのした!!」

木野崎係長の声がしたのを合図に、障害福祉課のみんなは各自机の下に入ったが、おっちょこちょいで長身の南くんはそのままパソコンを抱えていた

 

1分、2分……

揺れは治まらず、私は机からはい出し自分のパソコンを抱えた

船に乗ってるような大きな横揺れが続いていた

 

脇を見ると木野崎係長もパソコンを押さえていて、泣きだした女性職員の分のパソコンも押さえていた

(そのうち治まるだろう、静かに待てばいいだけだ)

私もつられて周りのパソコンを押さえた

 

揺れは治まらず、どんどん大きくなっていった

市役所の女性職員の半数は泣きだし、なかにはヒステリックに叫びだす人もいた

「大丈夫だから!だいじょうぶ!」

保健師の木野崎係長はパソコンを押さえながら女性職員をなだめだし、私は立ち上がったまま(もうパソコンは無理だ)とやっと気が付いた

 

市役所の1階正面入り口の巨大なガラス壁面が割れた

「キャーーーー!」

南くんはロビーですくむ高齢者に駆け寄っていた

若い男性職員が南くんと一緒に高齢者を囲んでいた

ほとんどの女性は泣き叫び、腰を抜かし動けない人もいた

 

会話ができるレベルの職員は稀で、私と木野崎係長は立ち上がり周囲を見渡していた

一枚が割れると、立て続けにガラス壁面はリズミカルにどんどん割れた

「外に!外に避難しましょう!」

フロアに木野崎係長が飛び出し、指揮をとりだした

他の部署の3名の職員が木野崎係長に続くように

「外へ!そと!」

と大きな声で誘導し、泣いている女性職員や市民を外広場へ連れて逃げる

その間にもガラスは飛び散り、地面は大きく揺れていた

 

外に出ると、揺れは小さくなったようにも思えたが、中庭の銅像がぐにゃりぐにゃりと揺れていた

1階のガラスは割れつくしたようだったが、綿煙のような粉が庁舎内に舞い散り始めていた

外へ出て少しホッとしたせいか、泣いたりわめいたりする人の姿は見られなくなった

中堅男性職員たちが輪になって煙草を吸い始めた

「タバコは止めてください!非常時ですよ!」

いつもは温和な木野崎係長は指揮を取ったり注意をすることで自分を保っているようだった

 

よく見れば中広場には市民の方もいて、市民課の50代の女性係長が

「今日は届け出は受理できそうになく~~」

と若い男女に説明を繰り返していた

 

地震発生から20分経っても、揺れは治まることはなかった

 

木野崎係長が中心となって

「女性職員と嘱託職員は帰りなさい!」

という声が響き始めた

 

市役所の鉄塔が大きく揺れていた

3階の市長室から市長が下を覗いていた

「おい、誰か市長を外にだせ」

「言ったんですけど出ないんですよ」

「あぶねーぞ、建物崩壊すんぞ」

 

地震発生から30分後、これは普通の地震ではないという事は分かった

怖かった

6階部分まで伸びていた、鉄塔がゆっくりと円を描きながら倒れた

キャー―――!!

悲鳴が響いた

「みんなを帰らせるんですね?」

「城之内さんも帰りなさい、もういいから!」

「でも荷物が!みんなの荷物!」

その場にいた数名の障害福祉課職員と私は顔を見合わせて黙った

女子更衣室は古くて、建物の一番奥にある

「無理だから!」

木野崎係長は止めたが

「行きます!私がみんなの分を取ってきます」

と私がいうと、佐藤保健師

「一緒に行く」

と言った

 

中に入った記憶はないが、古いロッカーをこじ開けて持てるだけの荷物を取った場面は覚えている

うっすらと灰色の景色の中を走り込んで、ロッカーを開けて、

「佐藤さん!佐藤さん!」

と言いながらまた飛び出した

 

40分経った頃だろうか?

いくら注意されても煙草を吸う人たちは止めず、市長は大きく揺れ続ける庁舎の窓から中庭を見ていた

少し揺れにも慣れ始めたころ

(ホワイトニングは行けないな…)

(帰ろう…、帰っていいなら帰ろう)

そう思った

 

「結婚届け、今日の日付で受理できそうです!」

遠くから市民課女性係長の声がした

受理印を取ってきたという話声が聞こえた

(みんな落ち着いてるようでもおかしくなってる)

私は木野崎係長に「帰ります」と告げ、駐車場に向かった

 

揺れは治まりつつあるように思えたが、目の前で道路が割れていく

 

民家のブロックがゆっくりのドミノ倒しのように倒れていく

 

電信柱は粘土のようにぐにゃぐにゃだ

 

(地面って割れるんだな)

 

信号は点滅をしたまま、ピカピカと揺れながら、折れ曲がりそうに揺れ続け…

 

(世界が終わるんだな)

 

私は新約聖書の様々な場面を、教会学校で習ったノアの箱舟を、モーゼの十戒を思い出していた

 

(私は箱舟に乗れなかったんだな)

 

いつもは2分で行きつく駐車場についたのは15分後だった

道が、まともに歩ける道ではなかったからだ

 

日常が音をたてて崩壊していくあの風景は、音のない世界と共に私に刻み込まれた

 

あの日から、どれくらい小学校は静かだっただろうか?

 

水は3週間止まったから、昼間は市役所で働き、夜は小学校のプールからバケツでトイレ用の水を運んだ

最初の3日間は深夜に小学校の外水道の水を汲んだ

飲み水にした

昼間給水車に並べない分、許してくれと思っていた

 

電気は4日間で復旧したけれど、とてつもなく長く感じた

 

食事を買えるようになったのはいつくらいからだろうか?

 

昼間は市役所で支援物資を仕分ける作業を担当していた

自分は空腹で、私の子ども達も空腹で親がいない家で留守番をしている中で大量の食べ物を福祉施設30数か所分に公平に分けていると、通りかかるエラそうなおじさんが食べ物をひょいと持ち上げる

私がにらみつけても素知らぬ顔で持って行った

赤ん坊を抱えた若いお母さんが「水とオムツをください」とやって来ても、私の一存であげることは出来なかった

 

沢山の避難所があった

みんな空腹だった

だれも十分な水がなかった

船酔いのような揺れがいつまでも続いていた

 

日常がいつ戻ったのか、私には判然としない

 

確かに世界は一度終わった

地震の恐怖はこの先数か月続いたけれど、もっと辛かったのは人間が引き起こした事柄の数々だったけれど

目の前で世界が崩れていくのを私は見た

人の心が崩壊しているさまも見た

 

私は東日本大震災のニュースは見ないし、映像も見られない

もっとひどい被害があった地域があることも知ってる

でも痛みは比べるものじゃないから、私は私を守り続けた

 

でもいつしか何気ない普段の生活に戻り、いま私は小学校を眺めながらマスクを縫う

 

もう楽しい気分はない

はやくこの混沌とした世界が収まって欲しいと切に願う

 

でも必ずおさまるから、叫ばず、騒がず、信用できる人に弱音を吐きながら、やり過ごしてほしいと切に願う

 

お願いだから

 

 

 

 

 

 

 

 

happy birthday to me

「誕生日プレゼント、何がいいの?」

12月に入ってから数回、夫は私に訊いてきた

「ちょっと待って!」

そもそもクリスマスプレゼントに何が欲しいかも決まっていなかった

「夫は何が欲しいの?クリスマス」

「そうだなあ…」

二人とも欲しいものは思い付かなかった

 

 

私は今日47歳の誕生日を迎えた

夫は56歳

この歳になってくると、捨てなきゃいけないものこそあれど、買わなきゃいけないものはほとんどない

 

20歳から30歳はお金がなかった

子供に楽しい季節の行事や誕生日を準備するのに必死で、クリスマスには160㎝のツリーをバーゲンで手に入れ、一年毎に飾りを増やしていたし、サンタクロースの存在を高校生になるまで信じられるよう演出に最大の留意を払った

チキンの丸焼きも作った

大きな靴下も手つくりした

サンタさんが食べるように枕元にミルクとクッキーも用意したし、フィンランドに手紙も書いた

私が本で見た欧米のクリスマスを模倣し、外国人の友人たちを招待したりもした

子供達の誕生日は公平に盛大に祝い、お正月はお節を手作りし、節分にはお面を作り豆をまき、お雛様も子供たちと手作りをした

七夕のには笹を飾り、筆でお願いことを書いた

夏には花火にプール、秋には地域のお祭りに参加した

 

 

でも、だから、1月の自分の誕生日はスルー

 

 

20歳から30代まで子育て中は非常に貧乏だった

なので30歳半ばになり、お金が入ってくるようになってからは、洋服・靴・バック、・アクセサリーを浴びるように買いまくった

ドイツ車も買った

結婚前のクリスマスにはヴィトンのバッグに財布にキーホルダーをプレゼントしてもらった

ヴィトンが好きだったわけではないが『ヴィトンを持ってるという安心感』が好きだった

食べ物も高級なものを欲した

ミシュランガイドを買い、スタンプラリーのように高級店を巡った

記念日、誕生日、クリスマス、等々

美味しかったけれど、そこまで味の違いがわからない私は「なんだかわからないけど美味しい」とはしゃぎまくっていた

 

砂漠に水を撒くように、いつまでも終わらない欲望なのかと思ったが、5年経ち40歳になる頃には憑き物が落ちるように欲望は消えた

たくさんの高級品はひと時私を満たしてくれたが、それは半年もすれば効力を失っていった

それらのモノたちは『高かった』という自分の思いも含め、処分するのに苦労した

ランディアに売り、メルカリで売り、数を増やさないように工夫し、満足度を上げるために買うものの単価を上げ…

「物をたくさん所有するのはたくさん処分しなければいけないという事だ」

私は愛着があるものを切り捨てる苦労を知り、ますます物を買うことに慎重になっていった

 

ここ数年は歳も忘れていた

「誕生日?もうめでたくもない歳だもんな…」

46歳なのか47歳なのか、時々自分でも分からなくなる

正直、どっちでもいい

何歳だろうと私は私だし、欲しいものもないし、十分満ち足りている

自分なんてどうでもいい

子供達が大人になるまで責任をもって育てられれば死にたいと思っていた命だ

誕生日なんてどうでもいい

むしろ自分の誕生日にお金をかけるなら子供たちのことにお金を使いたい

そう思って生きてきたのだ

 

でも、気が付いたら

 

娘は自活して3年目だ

息子は今年4月に就職で家をでる

 

「自分を祝おう」

唐突にそう思った

誰かに祝ってもらうのではなく、誰かの祝福を待つのはではなく、自分で自分を祝ってみよう

出来心のように、ひょいとそんなイタズラ心が湧いた

 

「牛かつを食べてみたい」

一日目の希望はすぐに見つかった

ここ数年、食べてみたいけど食べてなかった牛かつを食べようとスマホで検索をかけた

県内には2時間かかる場所に1件ヒットしただけだったのであきらめようかと思ったが、5年前にオープンした車で10分の駅ビルにその焼き肉店は出店していた

張り切ってランチ時に店に行くと、店内には誰もいなかった

5年前にオープンした駅ビルに初めて自分が入ったという不思議な充実感と共に、レアなカツをほおばった

 

「次は何をして祝ってほしい?」

牛かつの帰り道から私は考え込んだ

高級なプレゼントも食事もいらないとしたら、私は何が誕生日に欲しい?

何度も自分に訊いたが、なかなか答えは出なかった

 

ただ、何度も問うなかで気が付いたことがあった

幼少期の誕生日、祝ってもらった記憶がなかった

学童期のクリスマスとお正月、私の実家にホールのケーキはなかった

「クリスマスがあってお正月があってお年玉もらっているんだから、誕生日プレゼントなんて贅沢」

母にそう言われていたし、父は当然そのように考えていたんだろう

そもそも、クリスマスプレゼントもなかったし、ケーキがあったとしても父親が卓袱台返しをしてしまうから、まともに食べられたことはない

 

そんな家庭に育つ中で本の世界に没頭した

お話の中の幸せな家庭や暮らしに憧れ、私は夢を食べて生き繋いできたのだ

 

「私はお母さんとして生きていた20歳からの日々、してほしい誕生日を子供たちに投影してきたんだなぁ…」

 

当たり前のように用意されるプレゼント、母の特別な手料理、ホールのケーキ

用意されると知っていながら、知らん顔をして待つ私

そわそわしながら、そしてもらうのが当たり前の愛情たっぷりのプレゼントや料理

それを我儘な態度で多少ケチをつけながら満足そうにもらう私…

そういう日常が欲しくて、そういう愛情が欲しくて、私はおままごとのように子供達にそんな日々を造った

「本当に欲しかったものは、そんな誕生日だ…!」

 

不器用な愛情をあふれるほど当然のごとくもらいながら、その中で溺れたかった

「一周回ってこれか…!」

 

それに気が付いて、私はしんどくもあったけれど笑いだしたいような心境だった

ママをしている日々は幸せだった

お伽話の中のママをしていられる幸せは確かに物凄い幸福感で私を包んでくれたけれど、それは期間限定の設定で、私はもうママだけの役割ではいられない

 

自分自身に戻らなくてはならない

 

私は夫に指示を出した

このケーキを○○で注文し受け取ること、○○でオードブルを注文し受け取る事、理由は私が子供時代に味わえなかった誕生日を味わいたいからだが、夫には手料理は無理だろうし私が料理を作ったら私の希望する誕生日でなくなることを伝えた

「わかった!!!」

夫は人の気持ちを想像することは苦手だ

でもきちんと伝えればそのまま受け取ることができる

 

 

言わないでわかってくれるは幻想

そこまで我儘をいう幼稚さはもうなくなった

幻想でも幸せが欲しいなら言葉に変換する努力が必要だと、大人になった私は思う

 

私は幸せだ

私は幸福なまま、さらに幸せを貪りたい

だから私は自分で自分を祝う

私を愛でながら、よくやったとほめてあげたい

もしかしたらそれを父や母にしてほしいのだろうなとも薄々気が付いてはいるが、手に入らないものを追いかけて傷ついて消耗するのはもう飽きた

 

私は私を愛してくれる人たちにに囲まれながら、私を大事にしていこうと思う

happy birthday to me

よく頑張ってきたね

これからも応援してるから、無理せずがんばれ

happy birthday to me

 

 

母のこと其の二 ~だから私はクリスマスにサンバのステップを踏み続ける~

 

母に会う日は気が重い

母のことは大好きだし、可愛いと思う

けれどどんよりとした感情は薄い膜のように私に付きまとって払いのけられない

 

母はアルツハイマー認知症と診断されている

2019年1月11日にグループホームに入所した

2018年12月19日に「父に殴られた」と自分で警察に電話し、保護され、私が用意していた小規模多機能施設に緊急避難した

 

「クリスマスイブには、職員に暴力を振るったと小規模多機能から連絡がきたな…県内の精神科に電話をかけまくっていたな…」

去年の今頃、環境変化に伴い、母の精神状態はめまぐるしく変わっていった

激しい状況の変化、感情の波、それは当然の反応だったのだろうが、その対応に慣れていない小規模多機能施設の職員に苛立ち、母は職員を押し倒した

暴力をするつもりではなかったと思う

でも母はしつこくされるのが嫌いなのだ

何度も話しかけられ、飲みたくないお茶を勧められたからだと思う

でも暴力をした

他害行為は日本の高齢者施設のタブーだ

「母の居場所無くなる!」

奇跡のように支援がつながっているのに、どうしたらいいかと瞬間的に考え、はじき出した私の答えは「服薬調整」しかなく、クリスマスイブに県職員の措置関係の仕事している友人に連絡を取って「今から診てもらえる病院」を探し続け、姉や兄と話し合いという名の押し付け合いをしていたのだった

 

あれから1年

今日は2019年のクリスマスイブで、母のグループホームでクリスマス会が催される

 

母は父の居る実家があるA市のグループホームにいる

A市は高齢化が進み、かつては栄えた産業も衰退し、地域全体がお金を持っていない

「綺麗な服装をしていく必要はない。着飾っても浮くだけ」

私は買ったばかりの淡いブルーのセーターを着るつもりはなかった

去年買った服数枚は、先週の台湾旅行で着て洗濯中だ

私は仕事で着る真っ黒なセーターとパンツを身に着けたが

「クリスマス会にこれはないか…」

とスモークブルーのUNIQLOのセーターとGUのグレーのパンツに履き替えた

 

母は私が来ることを自慢する

それを知っていて遅刻するわけにはいかない

 

黄色い派手なドイツ車に乗り込み、ヒップホップを鳴らす

この車だけ、母は認識できる

「黄色い車は純子の車!」とはしゃいでくれる度に私はこの車を買ってよかったと思う

 

施設からの連絡は頻回で、台湾を旅行している数日前にも施設長から長文のラインが届いていた

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12月21日

お世話になります。 腕を動かすということになると 着替えなどの際が考えられますが、 そういった際にもきちんと注意していただくよう 職員にもお話ししております。 それから、お部屋で過ごされている際など、 ご自身で着替えなどをしてしまうことなども あるとのことでした。 骨折をなされてから、 夜間帯など、トイレが間に合わずに 失禁をしてしまうことが度々起こっており、 対策を考えておりますが、 まずは腕のギブスが取れるまで、 リハビリパンツとパットなどでの対応を させていただきたいと思っております。 昨日より、施設の予備のものを利用し、 ご本人様に履いていただけるようお話をしたところ、 快く受け入れてくださったので、 少し様子を見ております。 もしこれで大丈夫そうであれば、 立替にて、リハビリパンツとパットを こちらで購入させていただき 使用させていただきたいと思っておりますが よろしいでしょうか?

 

12月23 日

お世話になります。 本日、受診をさせていただきましたが、 以前と状況は変わらずで、 少しだけ骨はずれているが 今の所はこのままで大丈夫だということです。 それで、淑子さんが、以前から履いていたズボンと ベルトをしている場合、 自分で右手も使って、ベルトは外したりつけたり してしまうことがあるため 現在は、そうしたズボンとベルトは回収し、 ゴム紐のズボンを履いていただいています。 淑子さんが持っているゴム紐のズボンは、 一つしかないので、今度いらっしゃる際にでも、 大きめのゴム紐のズボンを 何着か持ってきていただけるとありがたいです。 よろしくお願いします。

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内心はいろんな思いがある

あれだけ職員からとがめられた『ズボンへの固執』が無くなってよかったなという思い

また買っていくのはいいが、今度のズボンは履いてくれるだろうかという願い

それでも、私の返事は「了解しました。宜しくお願い致します」のみだ。

 

母は今年の12月7日に右手首を骨折した

翌日に母を見舞い、様子や精神状態を確認し、その後施設側の説明を聞いた

母は卓球(卓球台を使った本格的な卓球)をしていて、勢い余り右手をついて倒れたそうだ

母は要介護2で認知機能には問題があるが、ADLという日常生活動作は健康で、むしろ足腰は元気なくらいだ

スポーツに夢中になる負けず嫌いの母のことだ、きっと夢中になって卓球をしたのだろう

 

見舞い後、看護師資格を持つケアマネと施設長が私と夫に説明を始めた

ケアマネは事故の概要や怪我の治療内容などを丁寧に説明した

「入院すると淑子さんの混乱が予想荒れると思い、整復で処置していただきました」

との言葉に私は

「その通りだと私も思います、ありがとうございます」

と同意した

施設長は

「うちはのびのびと、ケガやリスクを恐れるのではなく、皆さんにたくさんの楽しみを提供していきたいんです。だから転倒もやむを得ない。リスクを理解していただけないなら退去していただいても~」

という内容の話を5分かけてしていた

 

ずっと黙って聞いていた私は、努めて冷静な声と内容を心掛けながら

介護保険法に「転倒させていい」という記載はありません。転倒個所によっては死にも至りますし、寝たきりになる可能性もあります。安全を確保した上での生活の楽しみや残存能力の活用を介護保険法は謳っていると解釈しています。今回の件で母が卓球を楽しんでいたことは容易に想像できますし、職員の方々のご厚意を責めるつもりは全くありません。そして母は今回の骨折も「自分で転んだ」としか言いませんし「ずっとここに居たい」と常々言っています。退去の希望はありません。それを踏まえたうえで、お金の話を相談させてください」

 

私は8年間、高齢者介護の世界にいた

高齢者デイサービスの管理者と生活相談員や、市の高齢者専門ソーシャルワーカーとして働いてきた

その実践の中で、施設管理者時代は高齢者が施設で転倒などが原因の骨折事故等をした場合、過失責任の話し合い等もしてきた

 

「私は母の限られた貯金を使って生活費を運用しています。私は専門職成年後見人としても活動していますので、家庭裁判所にチェックをうけても問題のない管理を心掛けています。純粋に母の楽しみのための拠出なら問題はありませんが、責任の所在が母以外にもある場合に一切相談せずに全額自己負担することは母の資産の健全運用の観点から問題があると私は考えます。母が長く生きるためにはお金が必要です。湯水のように使うわけにはいきません。今回の事故で、医療費・病院の付き添い代1時間1000円などかかるでしょう。施設保険が適用されれば問題ないですが、もし非該当になった場合、職員見守りの末の事故です。費用の負担等を本社の方と相談してください。しかし重ねて申し上げますが、退去の意思はありません。もし全額自己負担と言われても争うことはしないでしょう」

ケアマネはしきりに頷きながら、施設長は鳩のように目を丸くしながら私の話を聞いていた

「話は終わりましたよね?」

と私と夫は席を立った

 

これが16日前の出来事だ

 

言うべきことを言ったはずなのに、言いたくなかったとも思う

なにも言わない、感謝しか言わない家族で居たかったと思う

 

私の家から母のグループホームまでは50キロ、1時間半かかる

 

途中の量販店で母のズボンを探す

(またこだわりが出たら困るから同じものを2本買おう)

2本買ってもお金をいくら使っても、履いてくれればいい

母を実家から引き離してからずっと困っているのは『ズボンへのこだわり』だ

 

母はこの1年間、一本のジーンズのようなボロズボンしかはかなかった

これは実家に居た2018年の夏から続いていて、察するにズボンを選べなくなった頃に父と買いに行き「いいズボンだ」と珍しくしきりに褒められたのだろう

「これはいいズボンなの」

母はそう繰返し、頑としてそのズボンを履き続けた

 

(履いてくれるならいくらだって出す…)

私は母をつれてデパートに行きズボンを探しどうにか購入させたし、高いものも安いものを買った

 

SNSを通じて『同じズボンを持ってませんか?』と拡散してもらい、本社の方にも問い合わせたが、もう同じものはなかった

 

「困るんです、どうにかしてください」

8月ころから、グループホームに行く度に職員に言われた

「すみません」

と頭を下げながら、私にはどうしようもないことだった

 

黒い2980円のズボンを2本買い、私は高速道路を走った

シートヒーターを入れ、音楽の音量を上げた

日本は家族のつながりを大事にするし、家族を神聖化する国だ

(どうして私ばかりが…)

母は私が10代の頃、事故で入院しても退院時しか来なかった

父が生死を彷徨った時も、病院に通い世話をしたのは幼い子を連れた私だった

(抱える必要があるのかな…)

 

私が市役所で高齢福祉課にいた時、様々な困難な家族のケースが舞い込んでいた

地域包括支援センターで対応できないようなケースが、私達チームのケースになる

遺産相続の泥沼からの介護放棄、そもそも両親が子供に虐待を繰り返し絶縁している中での親側の医療判断・介護など、どの家族も壮絶で悲惨だった

「もう娘さんに頼るしか…」

歳老いた両親にも明らかに問題があり、教育も受けなれなかったと思われる家族の中に、不思議と医療・福祉領域で働く専門職の子どもがいることが多かった

子供全員がではなく、兄弟姉妹の一人にそういう人がいるのだ

 

彼らは自力で家族を脱出し、資格をとり、遠くで自活しているのが常だった

私達が連絡を取ると、不機嫌そうな困った声を出しながら、必要な手続きをしてくれる

「お金なら出します」

と言ってくれる、もしくはそれ以上の対応をしてくれるのが彼らだった

私達は『抱える子』と呼んでいた

 

「申し訳ないなと思うのよ。だってたぶん相当苦労してきたでしょう?頑張って家をはなれて、自分で学費稼いで勉強して、家族作って。連絡取りたくない気持ちも分かる。だけど他に出来る家族がいないから、私達も頼っちゃうのよね」

チームの先輩保健師の言葉が頭をよぎる

「ほんとですよね~」

軽く聞き流しているふりをしながら、いつも願っていた

(私は『抱える子』になりませんように)

ところがこのざまだ

父や兄や世間からは冷酷な人間と思われ、自分の時間やお金を使い、誰にも感謝されず、へとへとになるだけなのに

 

結局わたしはあの家を『抱える子』になった

 

母のことは好きだと思う

それは間違いないと思っていた 

母に会いたいのに、A市に向かうだけで気が重い

(行きたくないのはグループホームだ。『母はグループホームで幸せに暮らしました。おしまい』そう言えたらどんなに楽だろう)

 

グループホームを移った方がいいのか、それも何度も自問した

しかし、グループホームは地域密着型施設だ

母の住所地はA市だから、A市以外のグループホームには入所できない

また、要介護2で特別養護老人ホームには入所申し込みもできない

母の資産から考えて、有料老人ホームやサービス付き高齢者住宅では費用が賄えない

また、DVからの保護の点から考えても、ケースを把握しているA市やA警察署の管轄にいた方がいい

それに、私が見てきた施設では、いまのグループホームが最低とは言えないのだ

職員は殆んどが無資格者や高齢者や外国人だ

しかし頑張ろうとしている

職員の人数が足りている

この2点だけで、この国では中の上の施設に入ると思う

 

私はさらに音量をあげて、車を走らせた

 

1番怖いのは世間から「母と一緒に暮らせ」と言われることだ

私は20歳で実家を出た

私はあの家族とは縁を切ったはずなのだ

私は自力で今の仕事も家族も、この黄色い車も手に入れたのだ

(私はこれ以上何かを抱えたらこわれてしまう…、私は相談者にそれを勧めないし、自分が大切だ)

 

グループホームには時間通りに到着した

夏祭りの時には近所の公民館の駐車場を借りており、施設長の80歳くらいの父親が鉛筆で書いた手書きの地図を、炎天下の中配っていた

 

しかし今日は車が3台のみ

グループホーム玄関前は駐車スペースが余っていた

(家族はほとんど来てないみたいだな)

 

私が挨拶をしながらグループホームの玄関を開けると、白塗りの顔にビニール製の鬘をかぶり安そうな着物に浴衣のつけ帯をした人、幼稚園児服に鼻水のテープを付けた施設長、熊の全身衣装の人、ツリーの衣装に電飾を付けた職員がいた

 

私がサッと通り過ぎ、30畳ほどの多目的室に行くと、室内の床一杯にティッシュの空き箱が並べられ、利用者は壁に張り付くように座っていた

利用者は全員、セーラー服や幼稚園児の格好、天使の輪をつけた女装、全身赤い縞のウォーリーなどの仮装をしていた

数名の家族もエルビスプレスリーや、学生服を着せられていた

 

その一番端に母はいた

母はビニール製の鬘を手に持ち、会場の中で一人だけ仮装をしていなかった

私がゆっくり近寄っていくと母は次第に表情を和らげながら

「純子?」

と私の名前を呼んだ

「そうだよ、お母さん」

「来たのね、よく分かったね」

「分かるよ、お母さん」

 

去年の私は、1年後に母に名前を呼んでもらえるとは思っていなかった

驚くスピードで母の記憶は失われて続けていた

しかしこの半年、母の記憶は一定のところで安定しているように思える

 

「トイレにね、行きたいの」

「そうなの?じゃ、いこうか?」

私が最初に取った資格は介護福祉士

鬘をテーブルに置き、母の背中からそっと手を添え、私と母はゆっくりトイレに向かうと

「あー!動かないで!」

という職員の声が聞こえた

ドミノが倒れるのを心配しているのだろう

私は声を無視して母をトイレに連れて行った

左手でしっかり立位させ、リハビリパンツを下ろした

「よく来たわね。今日は演奏会なのよ。早く戻らなきゃね」

母は難なく私の指示に従いながら、朗らかにそう言った

 

会場に戻るとティッシュ箱ドミノ倒しは終わっていた

会場の職員は私のことを不安そうにチラチラ見ていたが、しばらくするとツリーになっているケアマネがやってきて

「今日はありがとうございます。淑子さん、どうしても衣装を着て下さらなくて、再三誘っているんですけれど…着ましょうよ?」

「私は着ません」

母は左の掌をストップのポーズにしながら、静かにNOと言った

「じゃあ、む、娘さんはいかが~」

「けっこうです」

会場内で、母と私だけが普通の格好をしていた

 

その後、全員で『きよしこの夜』を歌った

母はひどい音痴で、歌の上手い父によく虐められていたが、今日の母は大きな外れた音で楽しそうに歌っていた

(私が子供の頃のクリスマスは…毎回父親がコタツテーブルをひっくり返して…ぐっちゃぐちゃになって、最悪だったな。お母さんの讃美歌聴くのは初めてだ…)

母の歌声を聞いているうちに涙が出てきた私は、泣いているのを見られまいと必死にハンカチで拭った

 

歌の後は、

○叩いて被ってジャンケンポン

○二組に分かれ競争

○負けた方が小麦粉に顔を突っ込みチョコ食べる罰ゲーム

○スタッフによるマジックショー

○プレゼント交換○オヤツタイム

ダンシングヒーローマツケンサンバを全員が謳って踊る、という会が2時間半続いた

 

母は30分おきに

「トイレにいきたい」

といい、私は母をトイレに連れて行った

トイレで母はパットを汚すこともなく丁寧に動き、用を足せば

「皆さんのところに戻りましょ!」

と言った

 

会場に帰れば、新聞の棒で頭をたたき合うゲームをに誘われ、そのたびに母は丁寧な所作で

「出来ません」

「嫌です」

と言い続けていた

(この地域は方言が強いのに、住んで50年たっても訛らず、むしろ今日の言葉はこの中で一番綺麗な日本語を話している)

私と母は、二人だけ異邦人のように見えたが、母は堂々としているのに対し、私は居心地が悪くて表情を硬くしていた

 

2度目のトイレを利用して、私は母に新しいズボンをはかせた

「ああ嬉しい!ありがとう」

と母は以前のこだわりを忘れたかのように、新しいズボンを受け入れた

 

会場では罰ゲームの『小麦粉に顔を突っ込む』が行われていた

母は誘われても毅然と断っていたが、セーラー服を着た女性利用者は、職員の真似をするように

「いきまーす!!!」

とおどけながら、小麦粉に顔を突っ込んで会場の笑いを誘っていた

「私の娘なんです」

母はそれを心配そうに見つめながらも笑うでもなく、隣のみつあみ幼稚園児の格好をさせられているハンサムな利用者の男性には10回以上、私を紹介した

「もう聞きましたよ。いつも隣で食事しているんですよ」

職員より丁寧に母の話を聞いた利用者の男性は、私にもゆっくり同じ挨拶をくり返した

 

母の施設内の友達は2名の男性利用者のみで、女性の友達は居ない様子だった

(誰よりも近所の奥さん連中に合わせるのを大事にして、必死に友人付き合いして、お道化ていた人なのにな。昔の母だったら、率先して小麦粉に顔を付けただろう、昔の母だったら)

私は母の涼しげな横顔を横眼で眺めていた

 

1時半から始まったクリスマス会が3時になる頃には、利用者に疲労の色が見え始めていたが、職員のテンションは上がるばかりだった

(夏祭りは10時から4時までやったもんな…これでも短くなったのか…)

しかし、夏祭りには18人の利用者の殆んどの家族が参加していたが、今日は4人しか家族はいない

 

夏祭りの頃から、このグループホームは変わった

 

7月までは、今の施設長の甥が施設長だった

 

元々は神奈川にある専門学校が母体となり、神奈川にグループホームを作ったのが始まりらしい

とても理念とケアが素晴らしいその施設で、福祉大学をでた元施設長は経営に関わりながらケアをしていて、そこに50代の現施設長が介護職員として就職し、昨年ケアマネ―ジャーの資格を取得したため、自分の両親(元施設長の祖父母)が住むA市にグループホームを計画した

神奈川の専門学校グループが本社となっているので、土地と資金を用意しフランチャイズのような経営をしているのだと思う

経営が軌道にのる7月までは40代の甥の施設長が管理運営をしており、その頃までは若い職員もいたし、慰問も外国の民族楽器や子供のヒップホップダンスなどが品よく頻繁に1時間程度行われていたのだ

 

施設長が交代した8月から、「今日中に夏用掛け布団を買ってきてください」という無茶な呼び出しや、「精神科の薬を止める」というラインが来るようになった

何が起こっている分からない私は(記録をチェックし、どんな問題行動があるか主治医に報告と相談をします)と返すと、

「同じ事を何度もいう、他の利用者に嫌われてる、ご飯の時間を何度も尋ねた」という内容を複数の職員が手書きで書いたメモを渡された

施設長は把握してない様子だった

(預かってもらっているんだから…)

と黙っていた私も、8月末の夏祭りの後、施設長あてにメールを出した

 

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グループホーム ○○○○

施設長     ○○○○様

ケアマネージャー○○○○様

                                  令和元年8月26日

                                 利用者淑子の二女 ○○純子

 

  日々の御礼と淑子の介護に対しての相談について  

 

前略 いつも母:淑子が大変お世話になっております。母はグループホーム○○○○を利用した当初から「ずっとここにいたい」と繰り返し私や姉に話しており、皆様の介護がいかに丁寧で親身なものであるか、日々感謝しております。いつもありがとうございます。

本日文書にてお伝えしたいのは

①8月13日にラインにて処方薬服用中止等のご相談があった際のやりとりに気になる点が数点あった事

②問題を是非共有し、適切な介護を行い、母の幸せにつなげたい

ということです。

 

①-1【服用中止の判断について】

・今後とも医師の判断に基づいた服薬管理をお願いします。

・服薬で抑えられる認知症状には限度があります。

現在私は自分の相談事務所にてカウンセリング・家族相談等を、○○○○センターで一般精神相談を行っております。

また、年間15回程度行政主催の講演会等で講話を行っております。

医師以外の者が自己判断で服薬中止することは非常に危険な行為だと繰り返し伝えている立場になります。今後も処方に疑問があれば病院受診をお願いいたします。

 

①-2【病状のメモについて】

・私は施設長とのラインで、介護記録から抜粋した『何月何日、毎回何時頃にこういう訴え×何回』というような具体的で頻度が分かるものを指したつもりでしたが、具体性に欠ける感情的なメモを家族の私に職員さんが説明なく渡されたことに対し、非常に遺憾に感じました。母を退所させろという意味かと思いました。

❶同じ話の繰り返し⇒傾聴、ページング、一定の関わり(介護技術)

❷執着が取れない ⇒傾聴、ページング、一定の関わり(介護技術)

❸歌を止めさせようと声をかけるまで止めない⇒止めて静止するなら声掛け

❹他の人がしたことを自分でやらないと気が済まない⇒歯磨き等は数回させて問題なし、髪の毛は家族に問題共有し、施設で切る様にする

などの対応策があるかと思います。

しかし、一挙に母の拘りや執着が手放されるわけではなく、安全で安定した関わりの中で、次第に緩やかになるものと予想されます。(病院にメモを持参された事については施設判断裁量内だと考えております)

 

【 要 望 】

〇母の居室にもネームプレートを張って下さい

〇職員のお名前が分かりません。廊下に写真と名前を張る等していただきたいです

〇母の病状で心配な点や苦慮している点があればケア会議等を開いてください

〇家族に協力できることは具体的にご指示ください

 

私側からの一方的な意見になってしまったことをお許しください。

母は父からの暴力や怒声に怯える暮らしをしてきて、今が一番幸せだと思います。

私も、厳しい暮らしをしてきた母に対し、人生の最後は安全で安心した場所で優しい方々に囲まれた現在の暮らしを続けてほしい、家族として母に対し最善を尽くしたいと考えています。そして私としては、グループホームと相談をさせていただきながら、末永くお世話になりたいと願っております。

今回の文書での要望もクレーム等の意図はなく、今後のより良い母の生活につながるようにと願っての問題共有の一翼となればという思いでお伝えすることを決意しました。

また、夏祭り後、ケアマネージャーさまと帰り際にお話しさせていただきました。優し対応に胸がつまりました。誠にありがとうございました。その中で話題に出たことです。

〇本人が拘るズボンについてはSNS等で呼びかけ数千人の方に探していただきました。

その流れで販売元本社にもご対応いただきましたが、販売停止している状況でした。

身体に影響がない限り、母の拘り=精神の安定を優先してください。

〇パジャマについては再度販売していないか確認して参ります

私の勤務上、水曜日なら比較的日程調整がしやすい状況です。認知症対応型生活介護サービス計画書の変更が必要な際は、家族として参加いたしますので、ぜひ今後ともどうぞよろしくお願い致します。

草々

 

夏祭りの感想

 

昨日はお疲れさまでした。

職員の皆様の熱気と情熱が伝わってくる素晴らしい夏祭りに参加させていただきました。

ありがとうございました。

 

【 意 見 】

時間が長すぎるように感じた。利用者にも疲労の色が見えていた。

10時から昼食までが体力の限界ではないか?

〇行事に熱心なあまり、多目的室に介護職員が0人になる場面が多かった。または、職員がいても走り回っており、名前も分からず声をかけられなかった。家族が来ている利用者は家族が対応していたが、家族が来ていない利用者の対応も他利用者の家族が担っていた。転倒や急変の恐れもあるため、行事担当以外に、フロアで健康管理や見守りに専念するスタッフの必要性があると感じた。

 

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3時を回ると母は

「もうすぐ終わりますか?」

と通りかかる職員に問いかけ

「もう少し」

と言われていた

職員はみな汗をかき、一生懸命騒いでいた

(今日も夏祭りと基本的には何も変わっていない。狂乱が楽しいことだと思っているんだな)

母は焦るでもなく怒るでもなく、それらを眺めていた

施設長がガッチャマンの衣装に着替え、カラオケにあわせスライディングしたり、側転のしそこないをして、笑っているのは職員だけになったころ、やっと最後の出し物になった

 

カラオケからは荻野目洋子の「ダンシングヒーロー」が流れ、職員が盆踊りのような踊りをはじめ、利用者にも手をつないで踊るように促し、徐々に踊り始めた

母は「踊りません」と断っていたが「トイレ」と私に言い、私が連れていこうとすると、ケアマネが走って来て

「今度は私が連れていきます!」

と必死の形相で言った

 

私が1人になり昭和の宴会のような会場を見渡しぼうっとしていると、最年長の薄毛の職員に無言で手を強く引っ張られ、利用者と手をつながされた

仕方なく私はお遊戯のように前後に手を揺らしながら、

(母ならちゃんと断ったのに!私に踊れというなら踊る!なんだよこの田舎の宴会は!)

と私は苛立ちが隠せず、かといって利用者の手を離すことも出来ずにそこにいた

 

ダンシングヒーローが終わると、母も帰ってきた

私はどこかほっとしながら、母と一緒に会場の隅でマツケンサンバを見ていた

 

パンダの白塗りをした職員がやって来て母に

「踊りましょうよ!」

と誘うと、母は薄く微笑みながら

「私は踊りません」

と断り、それでも執拗に誘われると

「では、私の代わりに○○純子が踊ります」

と答えた

私は驚きながらスリッパを脱ぎ、何の疑いも抱かずその場でサンバのステップを踏んだ

 

私はここ数年ダンスを習っていたし、身体も鍛えている

その身体を使って全身でリズムを刻むと、母は満開の笑顔で私を拍手した

「靴がないと難しいね」

私は言い訳をつぶやきながらサンバを踊った

 

会場の隅で踊る私の周りに、いつしかカメラを持つ数人が囲み写真を撮り始めた

しかし恥ずかしくはなかった

 

ずっとこのままで、凛とした毅然とした美しい女性でいてほしい、ただそう思うながら、まっとうなサンバを鍛えた身体で踊った

 

私は母のために踊っていた

この女王のように美しい女性のために、私は憎まれるヒールにもなるし、下僕にもなる

昔の母じゃない

認知症の、このきぜんとした女性の為にだ

 

たぶん、母の顔色がよくなったのはこのグループホームのおかげだ

母は実家からは若い時も認知症になってからも逃げだしていたが、この施設からは逃げ出していない

「ずっとここにいたい」と言う

やっと母が見つけた居場所なんだろう

 

一年前に比べたら、小さな不満や愚痴だ

母は暴力に晒されず、自分の意見を言うことが出来ている

母は病院に連れて行ってもらい、治療を受けられる

母を怒鳴る人はいない

母の顔色は良くなり、清潔も保たれ、母は「皆さん」のもとへ行きたいという

 

もちろん完璧じゃない

専門的な力量もまだまだだ

だけどこんなふうに小競り合いをしながら、少しづつ母のことや介護や認知症について、分かってくれたらいいなと思う

 

私は意見を言うだろう

私は施設管理者に煙たがられ、施設に行くたびに罪悪感から気が重くなるだろう

 

でも、私はやっと母が好きになった

認知症になった母が、一人の女性としてカッコイイと思えるから

もう少し生きてほしい

だから私は言うべきことは言う

施設側の、管理者にだけ言う

そのためなら悪役でも踊り子でも何でもする

 

母が喜ぶから私はやるしかなくて、気が付けばどんどん強くなる

母が言いたいことを言いながら生きられることが、私への報酬なのだろうから

 

だから私はクリスマスにサンバのステップを踏み続けることになる

 

それをもしかしたら喜びと呼ぶのだろうか?

 

そんなことを思いながら、私が手をひらひらと旋回させてると、母は童女のように微笑みながら、同じように手をくるくると回してみせた